『あなたの願いは聞き入れられた』 井上隆晶牧師
詩編106編39~46節、ルカ1章5~25節

今日は都島教会の創立58周年記念礼拝です。58年前に平方先生のご自宅で始められた伝道所が、この地に土地を買い、無牧の時もありましたが、多くの人の助けと祈りと献金に支えられて今日に至りましたことを感謝します。私がこの伝道所に来た時は26年前でしたが、その時はほんとに僅かな人だけでした。持っているものも僅かでした。きちんとした礼拝堂もなく、立派なオルガンも墓地も何もありませんでした。その後、多くの人に出会いました。そしてそれらの人に助けてもらいました。それだけ豊かにされたということだと思います。失ったものもありますが、考えてみたら与えられた物の方が多かったと思います。罪は年々増し加わりましたが、恵みも増していきました。

❶【人間の信仰は神の前に耐えられない=律法の限界】
今日はアドヴェントの第二週ですが、洗礼者ヨハネのお父さんである祭司ザカリアと妻エリサベツのお話をしたいと思います。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子供がなく、二人とも既に年を取っていた。」(6~7節)とあります。神の前に正しい人で、掟と定めをすべて守り、非のうちどころがないと書かれている人など聞いたことがありませんから、よっぽど立派な夫婦だったのでしょう。しかしこの夫婦には子供ができませんでした。植物ならば、実がないということは、その木だけで終わりということです。自分の代で終わりということは、命が次の代に続かないということであり、この世だけということになります。つまり子供がいないということを象徴的に解釈するならば、律法をいくら完全に守っても、この世だけの命であって《永遠の命》に至ることはできないということを教えています。
そのことを証明する出来事が起こりました。ザカリアは当番に当たり、聖所に入って香を炊いていると、天使が現れ、香壇の右に立ちました。ザカリアはそれを見て、不安になり、恐怖の念に襲われました。非の打ちどころが無い人ならどうして恐れるのでしょう。私たちは戒めを守れないので恐れます。自分の罪が顕わになること、自分の弱さが顕わになることを恐れます。しかし神の戒めをきちんと守っていれば何も恐れることはないのではないのでしょうか。それなのに彼は恐れました。結局、このことは神(天使)の前では彼の信仰は耐えられなかったということを教えているのです。彼の信仰は、人間の中では優れたものであったかもしれませんが、神の前では耐えられないものだったのです。人の信仰とは所詮、人との比較です。いくら強い光に慣れた人でも、太陽の強い光には耐えらません。神は太陽よりも輝く方です。人間が耐えられるはずがないのです。だから神が人間の前に姿を現す時、「恐れるな」というのです。
天使はザカリアにいいました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。…」(13節)。生まれる子は偉大な人になり、生まれる前から聖霊に満たされており、救い主の前に先立ち、準備のできた民を用意するというのです。
ザカリアは「何によって、私はそれを知ることが出来るでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています。」(18節)といって現実離れしたことを信じることができませんでした。そこで天使はザカリアに言います。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者…あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」(19~20節)こうしてザカリアは子どもが生まれるまで約10か月間の間、口が利けなくなりました。これは面白いと思います。これは信じなかった罰というよりも、神様のなされることを黙って見ていなさいということなのではないのでしょうか。人間にはそれがなかなかできません。ユダやペトロのように、すぐに神のなされることに「口出し」をしたくなるのです。そこで「口出し」できないように口が利けなくなったのです。
エリサベトが「命を宿さなかったこと」も、ザカリアが「天使を恐れ、その言葉を信じられず、口が利けなくなったこと」も、命を宿さなくなった神殿・律法の限界を意味しています。律法には命はないのです。どんなに戒めをきちんと守っても、そこには誇りと守らないと叱られるという恐れはあっても喜びがないのです。喜びと命は結びついています。喜びの無い宗教には命はないのです。そして神を賛美する言葉も出てこないのです。

❷【あなたの願いは聞き入れられた】
しかし、ここに一つ希望が与えられています。それは天使の言った言葉です。天使はこういいました。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名づけなさい。…」(13節)。ザカリアもエリサベトも「子どもを与えて下さい」と長い間祈ったことでしょう。かなえて欲しい願いをずっと祈っている内に、祈りは習慣的になり、慢性的になってゆきます。やがて歳を取ると共に、そのことには触れなくなり、そのうちに祈ることも辞めてしまったと思います。しかし祈りはひとり言ではなく、ため息でもありません。聞いておられる方がいるのです。私たちは忘れてしまいますが、神は私たちの祈った祈りを忘れません。口が利けるようになったザカリアは神を賛美してこういいました。「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。」(72~73節)。神は約束を覚えていて下さるということです。私たちの事を忘れていないということです。いつか思いがけない時に、思いがけない方法で神様は私たちの願いに答えられるのです。ただ気をつけなければならないことがあります。子供が欲しいという願いは確かにかなえられたのですが、ザカリア夫妻の思い通りではありませんでした。願いが適えられたのも若い時ではなく、高齢になった時でした。神の時というのがあるのです。そこに神の計画が込められてかなえられるのです。でもそれが一番いいのです。神のなさることに悪いことは何一つないのですから。
●三浦綾子さんの本の中にこんな話があります。
札幌のある教会での出来事です。ある一人の信者と牧師が、心を合わせて、市内の北部に伝道所が与えられることをひたすら祈り続けました。毎朝というのは大変なことです。冬はストーブも焚かずに寒さに震えながら、朝の六時に祈りました。讃美歌を歌い、聖書を読み、祈ります。これが1時間くらいかかります。遂に信者は神経痛にかかりました。祈り始めて345日目のことでした。痛みのあまり、もうこれ以上祈ることが出来ないというまでに追い込まれました。その日は夜も祈祷会がある日で、聖書を読んだ後牧師は語りました。「人間の力が尽きて、もうこれ以上どうしようもなくなった時に、初めて神の力が働いて下さる」。その話を聞いた後、教会員たちは祈り始めました。祈り終わった後、一人の男性が教会を訪れました。牧師に面会したいというのです。話を聞くと、彼はこういいました。「実は私は、ある教会の信者です。私は札幌の北部に85坪の土地を持っています。そこに15坪の家を移築するつもりですので、どうかその家を伝道に使って下さいませんか。」牧師も教会員も、夢かとばかりに驚きました。この教会は貧しく、お金もありませんでした。でも何とかして神の言葉を伝える為に伝道所が欲しいと願っていました。それが突如、見知らぬ紳士によって与えられることになったのです。このことの成った陰に、実に345日間、一日も欠かさない祈りがあったのです。
祈りが利かれた時、祈った者は恐れ、圧倒されてしまいます。
このようにして私たちは祈りを聞かれる主に出会い、私たちの信仰は新しくされてゆきます。誠実な方の前に出て初めて人は自分が何といい加減な人間なのかと悟ります。しかしそんないい加減な私たちを、いい加減に扱わない方がおられるのです。そういう神との出会いが私を新しくし、真実な者へと変えてゆきます。神が誠実であるということに私たちは希望を持っていいのです。

❸【時が来れば実現する神の言葉】
もう一つ、天使ガブリエルの言葉の中に希望があります。それは、「時が来れば実現するわたしの言葉」(20節)という言葉です。神の言葉(約束)というのは、時が来たら必ず実現します。人間の不信仰に関係なく、神の業は時が来れば実現するのです。人間に信仰があるから実現するのではありません。神の業は神が自由に行うものであって、人間の行動に縛られません。時が来れば何があっても実現するのだというのです。
・「私は神、ほかにはいない。私は自分にかけて誓う。私の口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。」(イザヤ45:22~23)、
・「わたしの計画は必ず成り、私の望むことをすべて実行する。」(イザヤ46:10)
・「私の口から出る私の言葉もむなしくは、私のもとに戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:11)
たとえ、人間が忘れていても、人間が信じられなくても神の言葉は必ず実現します。だからすごい。神の業が必ず現れるので、人はそれを信じるように招かれているのだと思います。それが伝道です。

●29歳で、肺結核で亡くなったクリスチャンの詩人、八木重吉さんの詩にこんなものがあります。
くろずんだ木
くろずんだ木を見上げると むこうでは わたしを見おろしている
おまえはまた 懐手(ふところで)しているのかといっている
森へ入り込むと いまさらながら ものというものが みいんな
空をさし 空をさしているのに驚いた
ああ、確かにそうだと思います。森の木々はすべて枝を天に伸ばし、神様を見上げているのに、人間は手をふところに入れたまま、神様に手を伸ばすこともせず、いつも自分中心で、ああだ、こうだと悩み、思いめぐらします。しかし神の業は時が来たら必ず成ります。神の国は来ます。もう決まっているのです。私たちはその時に向かって生きているのです。修道士がいつも言う言葉があります。「朝日は必ず昇る。私たちに求められているのは、ただその時に、眠り込んでいないことだけだ。」

❹【救いは人間の外から来る】
ヨハネが生まれると、ザカリアは口を利けるようになりました。「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。…ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。…」(ルカ1:64、67)、子どもを身ごもったエリサベトは「主は、今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました。」(ルカ1:25)この老人たちの喜びようを見て下さい。神様がこの高齢者たちになされた業は、人間の可能性を越えています。信じられなくて恐れても、高齢でも、可能性がなくても神の救いの業がその人に現れた時、人は喜びに満たされます。
●ザカリアは預言しました。「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす…」(ルカⅠ:78)「死の陰」とあります。陰というのはどうやってできるのでしょう。横に何かが立つと陰が出来ます。死の陰ですから、いつも横に死が立っていて、その陰の中でいつも死におびえながら生きているのが私たちなのではないのでしょうか。この陰から逃げようとしても逃げることができず、その陰はどうしても去らないのです。そんな私たちの所に、キリストが来て下さったというのです。命が来て、私の横に立って下さった。光が来て、私の横に立って下さった。そこで死の陰は消え、今は命の光の中を歩いているのです。神のもとから「あけぼのの光」がやって来たのです。もう二度と暗闇に戻ることはありません。これからはどんどん明るくなるのです。そういう時代に生きているのです。闇の時代ではないのです。

救いは人間の外からやってきます。神の光は向こうからやってきます。その光に触れた人は誰でも変わります。人間がもうだめだ、限界だ、終わりだと思った時に、神がこの世の外から入ってきて何かをされるという希望がキリスト教にはあるのです。だから面白い。何が起こるか分からない。
何年先か分かりませんが、私たちの労苦は必ず報われます。祈りも必ず聞かれる日が来ます。なぜなら聞いておられる方が誠実だからです。だから、希望をもってこの終末の時代を送るのです。それがアドヴェントを送る私たちの生き方だと思うのです。