『万物の救い』
ローマ8章18~23節、マタイ17章1~8節    井上隆晶牧師

❶【この世(全宇宙)も救われる】

キリスト教の救いというのは、人間の全体が救われることをいいます。人間とは何でしょうか。ヘブライ人たちは、人間とは肉体と霊魂が一体となったものと考えました。一方ギリシャ人は肉体は劣ったもので、優れた魂が宿る器と考えました。しかし聖書は肉体も魂も神が創造された良い物と見たのです。アダムはどこで罪を犯しましたか?心ですか、肉体ですか?その両方です。心で罪を犯そうと思っても、肉体がなければ罪を犯したことにはなりません。肉体も魂も両方で罪を犯したのだから、癒されるのもその両方なのです。霊魂の救いだけでは駄目です。肉体も救われなければなりません。肉体と魂の二つが神によって救われなければなりません。クリスチャンとは単に「霊魂不滅」を信じているものではなく、肉体の復活を待望している者です。イエス様の遺体は墓になかったでしょう。イエス様は受け取られた人間性、つまり肉体と魂の二つを救われたのです。この考え方が、神によって創られた目に見える被造世界にも適用されます。

 

パウロはこういいました。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望ももっています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。」(ローマ8:19~22)

神は人間にこの世界を治めるように命じましたが、人間は自分勝手にこの世界を治め、自分の欲望の為に自然を破壊し、この世界の中に罪と死、すなわち崩壊を持ち込みました。この世界のすべての被造物が、人間の堕落と共に呪われた状態でうめきながら苦しんでいるというのです。「被造物は虚無に服している」というのはそういう意味です。

  • 2007年4月6日「国連の気候変動に関する政府間パネル」というところで「地球温暖化」についての報告書がまとめられました。ヨーロッパ諸国はこの問題をかなり敏感に受け止めていますが、アメリカ、中国、インドなど経済至上主義の国は受け取り方が違います。地球温暖化による平均気温が1990年を基準にして一度上昇すると、30パーセントの動植物に種の絶滅の恐れが生じ、4度上昇すると、海面上昇によって約30パーセントの沿岸湿地が失われるといいます。

しかし同時に、神の子たちが現れるのを待ち望み、自分たちが滅びから解放され自由になるという希望を持っています。「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放され…自由にあずかれるからです。」とありますから、この世界もいつか滅びから解放され救われるというのです。聖書は明らかに「自然万物の救い」ということを言っています。ですから、この世は消滅しないのです。教父たちははっきりとこの世は滅びないといいます。「『主の言葉は永遠に変わることはない。』(一ペトロ1:25)のだから、被造物はいつまでも存続するであろう。人間の罪は、神が創造されたものを破壊することはできても、無に帰してしまうことは出来ないのである」と言っています。聖書の中で「万物が滅びる」という表現がされているのは、それは無に帰すことではなくて、新しいものになるために、いったん古い様式が中断されることを意味しているのです。

  • 秋が深まると赤や黄に染まる落葉樹の美しさに感動します。葉は樹木にとって光合成を行い、栄養を作り出す大切な部分です。しかし冷気に弱く、低温によって光合成する力を失った葉は呼吸するのにより多くのエネルギーを必要とします。そこで樹木は寒くなると葉に蓄積された養分や栄養素を回収し、枝や幹の老廃物を葉に送り、そのうえで葉を落とします。植物は根から必要なものを吸収しますが、間違って吸い込んだ不要なものや老廃物を葉に蓄えて、年に一回捨てるのです。排せつされた葉は木の根元にたまって、バクテリアなどに分解されて、木などの養分となります。樹木が寒い冬を生き抜くための策です。そして落葉の頃には枝の先端に来春の芽が小さく姿を見せ、次の準備が始まります。

「老廃物を葉に蓄えて、年に一回捨てる」というのは面白いです。こうして古い物を捨てて、生きるために死んだようになるのです。この世界も同じです。

私たちは「この世」から救われるのではなく、「この世とともに」救われます。私たちはやがて来るべき時を、単に人間が救われる時としてだけでなく、全宇宙が救われる時、贖われる時、変容する時として待ち望んでいます。「新しい天」とともに「新しい地」がなければなりません。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。」(ヨハネ黙示21:1)とあるからです。人間の救いはこのように全被造物の贖いにつながってゆきます。

 

❷【この世は神の恵みを伝えるイメージである】

十八世紀の英国の詩人であるウィリアム・ブレイクは「生きるものはことごとく聖なるものです。」と言っています。この世のもの、すべての生命、人間と同様にすべての動物たちもみな聖なるものです。この世は決して悪いものではありません。神は悪を創造しませんでした。この世を、神の臨在を顕すものとして接しなければなりません。すべてを神を顕すものとして尊ばなければなりません。神がお造りになったものに凡庸なものも卑しいものもありません。すべてが神の恵みを伝える仲立ちとして働いているのです。

アレキサンダー・シュメーマンという神学者がこんなことを書いています。

  • 「世界は、たとえこの世へとどれほど堕落してはいても、救いを、贖いを、癒しを、新しい天と新しい地への変容を待つ《神の世界》としてとどまっている。

この世界はどんなに堕落していても、神による新しい世界へ変容・変化するのを待っている世界なのだというのです。続いて、彼はそのしるしが教会で行われるサクラメントにあるといっています。

  • 「世界は人のために創造された。人のいのちが神のいのちに与るものへ変えられるために創造されたからである。洗礼の水が《再生の水》となり、パンとブドウ酒が《キリストの体と血》になり、油に聖霊が降って《祝福された油》となるように、この世のあらゆる物質は神からの贈り物であって、それらを通して人間にいのちを与えるように神は定めたのである。それらのすべての被造物は、神の救いの計画を成就するために召し出されているのである。

それだからこそ、この世のすべて造られたものを神と交わるために用いてこそ、それらが生きてくるのであって、それらを単に自分の欲望を満足させるために用いることは万物を堕落させることなのです。この世の物質、神に創られたあらゆる物は、良い物であって、神を思い出すためのイメージ(イコン)であり、神の命と恵みを私たちに伝達するための材料なのです。「目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることが出来ます。」(ローマ1:20)

 

❸【この世はやがてキリストによって変容する】

4世紀のマキシモスはこういっています。「人間は全被造物の司祭であり、引き裂かれた一切の事柄を一致させ、創造主である神に献げ、返します。」この務めは、もともとは最初に創造された人間アダムに割り当てられていましたが、彼はその務めを失敗したので、第二のアダムといわれるキリストがそれを成し遂げられました。神はこの世界を創造された方だけでなく、救われる神でもあります。キリストが万物を創造し、同時に万物を完成します。神と人の間の仲保者となって、引き裂かれた神と人間の関係を回復します。自分の中で神と人を一体にし、人を朽ちないものに変容します。神でありながら人になることによって、神と人を家族にします。この世を御自分と一体にするという形で新しくし、完成するのです。そこでパウロはそのことを讃えるために、このように言いました。

・「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも、地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(エフェソ1:10)

これは古代教会からあった有名な思想で【再統合・再帰一】(ギリシャ語でアナケファライオーシス)といわれます。万物もキリストのもとに帰り、再び新しくなるのです。キリストだけが被造物を受け取られた方だからです。父でもなく、聖霊でもなく、御子キリストだけが被造物であるこの世と一体になりました。だから変容の仕事はキリストを中心にしてなされるのです。言(ロゴス)は、万物に現れ、聖霊によって万物を神と一致させてゆきます。

先程「世界は、救いを、贖いを、癒しを、新しい天と新しい地への変容を待つ《神の世界》としてとどまっている。」といいましたが、新しい天と新しい地へと変容

させるものが神の霊である聖霊なのです。聖霊がおられるところに命があり、被造物の更新があります。聖霊は死んだ者を復活させ、悪霊を追い出してその人の中に住み、神を教え、神に祈りをささげ、一切の破壊された秩序を回復させます。聖霊は五旬祭の日にこの世に来て、この世の日を、天国の第一日に変容しました。聖霊がおられるところに「神の国」は存在します。教会生活というのは聖霊を獲得すること、聖霊に与ること、聖霊によってキリストに似た者になることへの飽くことのない渇きの生活です。

 

❹【神の国とこの世の国が一つになる】

4世紀のクリュソストモスはこういっています。「この世は神を拒絶したが、神はこの世を拒絶しなかった。」この世は、真の王である神を拒絶しましたが、それでもこの世は神のもの、神の造られた彼の世界です。だからこそ、キリストはご自分の国にロバに乗って入場したのです。地上ではいまだにこの国は見えません。しかしやがて、この国は天の国と一体になり、新しい天と新しい地になるでしょう。それまでは神の国は信じる者の間にあるのです。「マラナ・タ、主は来られ、主は来られつつあり、主は再び来られます。」神の国は終末に来るのではなく、個人の死後に来るのでもなく、既にもう始まっています。教会の礼拝というのは、神の国をこの世に見せるものです。門が開かれることは、神の国の門に皆さんが入ることを意味します。平和の挨拶は、天国での挨拶を意味します。聖餐式の時に、祝福されたパンとブドウ酒をいただくことは、天国での祝宴を意味しています。その時に読まれる「パンは一つなので私たちは大勢でも一つの体です」という言葉は、天国ではどんな国籍も、人種も関係なく、すべての人がキリストによって一つになることを現しています。こうして天の国を開示させるのが礼拝です。

 

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。」神の子とはキリスト教徒のことです。人がキリストによって救われることの中に、他の被造物の救いが含まれているということです。私たちが救われることは、宇宙が救われることの始まりです。「全イスラエルの期待は誰にかかっているとお思いですか。あなたにです。」(サムエル上9:20)若いサウルに預言者サムエルが言った言葉です。しかし、同時にあなたにも言われた言葉です。自分などつまらん者だと思わないようにしましょう。

K兄のお見舞に、都島総合医療センターに行きました。今までこの病院に何回、お見舞いに来たことでしょう。その度に思うのです。なぜ、この人たちが病気になり、私は病気にならないのだろう。本当なら、私は未熟児で「助からない」と医者に言われ、この世にいない者だったのです。そんな私が今、健康が与えられて働くことが出来るのは当然ではないと思いました。自分で生きているのではなく、生かされている不思議を思いました。使命が与えられているからでしょう。命の続く限り、全宇宙の救いのために神の国を伝えたいと思います。