2017年2月12日(日)主日礼拝説教
『この世は神に愛されている』井上隆晶牧師
詩編34篇16~23節、ヨハネ福音書3章13~21節

❶【イエス様は天から降ってきた方である】
今日の箇所は、イエス様が老人であるニコデモに、洗礼についてお話した後のお話になります。引き続き、イエス様はニコデモに自分が何者であるのかを教えられます。「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。」(13節)「人の子」とはイエス様のことです。イエス様は天(つまり神のもと)から降ってこられました。彼は地上に来て、地(すなわち人間の肉体)を受け取られました。こうして私たちの救いにふさわしいことが行われました。イエス様が地(肉)であるからこそ、私たちに触れることが出来、天であるからこそ私たちを天に連れて行くことが出来るのです。彼自身が天であり、彼は地上に天をもたらしたのです。「人の子のほかには、天に上った者は誰もいない。」といわれます。人間は誰も天に上った者はいません。どんな偉人でも教祖でも天に上った者はいないし、天のことを知りません。天から来た者だけが天のことを知っており、イエス様だけが天のことを知っているのです。故にこの地上で、彼が唯一の《天国の門》であり《天国への梯子》なのです。そして教会はキリストの身体ですから、教会は天国への梯子であり、地に現れた天なのです。今、皆さんがおられるところは天であり、エデンです。キリストが歩んでいる場所です。あなたがイエス様と共にいるならば、あなたは既に天にいるのです。イエス様を見つめる者は、天を見るのです。イエス様の中に入るならば、あなたは既に天に入っているのです。イエス様を受け入れるならば、天はあなたの中に来たのです。イエス様と共にいることは何とすばらしいことでしょう。

❷【キリストの十字架を信じて仰ぐ者は命を得る】
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」(14節)イエス様はニコデモに自分は十字架に架かるといわれます。この話は民数記21:4~9に載っています。民が不平不満をいったので神は炎の蛇を民に送り、多くの死者が出ました。民は悔い改め、モーセが祈ると、神は青銅の蛇を造り、それを見上げれば命を得るといわれました。「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと命を得た。」(民数記21:9)と書かれています。この青銅の蛇とはイエス様の十字架を予象しているのです。イエス様は十字架で蛇の頭を砕き、蛇を十字架に釘づけたからです。人がサタンという蛇にかまれて、罪と死という毒に犯されても、十字架を見上げればその人は生きるのです。人がキリストの十字架を仰ぐとき、人の心の中に癒しが始まってゆきます。
「それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(15節)人はイエス様を信じることによって、永遠の命を得ることが出来ます。他の誰からでもなく、他のいかなる方法からでもなく、ただこの十字架のイエス様から永遠の命は流れてきます。そのためにこの方は十字架の上で自分の体という神殿を壊されたのです。そのことを通して永遠の命という財宝が私たちにもたらされたのです。「永遠の命」とは「神の命」のことであって、私たちが持っている被造物の生命が来世で長らえるようなものではありません。また、来世で新しい被造物的生命をもらうことでもありません。私たちは神の命をもらうことになります。それが、私たちが創造された目的だからです。
神は永遠の昔から、その栄光の輝きを放っておられます。それは神の完全性の現れであり衣です。父は栄光の父であり、子は栄光の輝きであり、聖霊は栄光の霊です。神は無限の愛の中におられるので、この栄光に与らせようとして人間を創造されました。その栄光は、神から出たものであって、創造されたものではなく、神の性質をもっています。それは聖書の中で「光、恵み、永遠性、知恵、命、正義、真理、愛」などとさまざまな名で呼ばれます。
●2月7日に、高山右近が「福者」に認められ、大阪城ホールで列福式が行われ、1万人が参加しました。福者というのは聖人に次ぐ聖者のことです。12歳で洗礼を受け、高槻城主として民を愛し、秀吉のバテレン追放令でも信仰を捨てず、1614年の禁教令で国外追放となり、翌年2月3日にマカオで亡くなります。列福式の様子をビデオで見ましたが、「ミゼリコルディアス ドミネ」と何度も繰り返して歌う聖歌が印象的でした。
私たちはこの「神の命」である「永遠の命」を来世でもらうのではなく、この世からもらいます。その命は、私たちの中に徐々に浸透して行って、私たちをだんだんとキリストに似た者に変えてゆきます。その命は、神と共に生き、神と共に歩む信者たちの分け前であり、私たちはやがて神の国で太陽の様に輝くと書かれています。聖人といわれる人たちは、この世で神の命によってキリストの似姿を体得した人のことなのです。しかし一体、神の満ち溢れる命に私たち人間はどうやって与れるのでしょうか。神に触れた者は死に、神を見た者は死に、神の声を聞いた者は耳が鳴るというのに、どうやって神の近づくことの出来ない神的命に与ることができるのでしょう。それはちょうど太陽本体には生物は決して与ることはできませんが、太陽から出た、太陽の性質をもち、しかも生物が受け入れるのに適した光と熱にまで弱められた太陽エネルギーに与って生物が生きるのと同じです。この神から出た命は、私たちの中に入るためにその力を弱め、私たちを永遠に生かすのです。しかしそれは想像してみるにものすごいエネルギーでしょう。

❸【この世は神に愛された】
「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(16節)「世」とは何でしょう。この世界であり、滅んでゆくものであり、有限なものであり、人間であり、あなた自身です。神は「この世」を愛されました。神はご自分が造られた世界、ご自分に似せて創造された人間が滅びることを望まれません。神はこの世に御子イエス様をお与えになりました。この世界とあなたを原初の状態に回復させるためです。独り子であるイエス様を与えたというのは、十字架を意味しています。この十字架によって世の呪いが取り除かれました。人間の罪によって死がこの世に入り、この世と人間は呪われました。しかし、御子はこの世に来られ、「この世」と共に「呪い」を引き受けられたのです。それが十字架です。茨の冠は呪いを象徴しています。だから聖パウロもこういっています。「キリストは私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラテヤ3:13)
キリストはご自分の中でこの「呪い」を「祝福」に変えられました。すべての毒をキリストは飲み込み、その毒を解毒されたのです。「罪」を引き受け「赦し」に変え、「死」を飲み込み「命」に変え、「腐敗」を飲み込み「不滅」に変え、「時間」を受け取られ「永遠」に変え、「地」を受け取って「天」に変えられました。故に、キリストの中ですべての「呪い」は終わったのです。だからキリストの中に(教会の中に)留まる人は、呪いから解放されています。キリストの中にはもはや呪いはないからです。キリストってすごいですね。ただあなたがキリストから離れたら呪いは再びあなたを襲うでしょう。聖書に「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」(ヨハネ3:18~19)と書かれてあるのはそういう意味なのです。キリストの中にいる人は裁かれません。しかし彼の外にいる人は、裁かれてしまいます。闇は呪いです。闇の中にとどまることが裁きなのです。神は誰も裁きません。「一人も滅びないで」とあるからです。ただ光である神が来た時、自然に闇が出来ます。その闇に自らの意志で人は留まり、自分で自分を滅ぼしてしまうのです。神が滅ぼすのではありません。
●TVで「エクソシスト(悪霊払い)」という海外ドラマをやっています。エクソシストをしてゆく時に、気をつけなければならないのは、悪魔と対話をし、悪魔の言葉を聞いてはいけないということです。イエス様が悪霊を追い出した時、「黙れ」といって「悪霊にものをいうことをお許しにならなかった」(マルコ1:34)とあります。悪霊は嘘をつくからです。ただ少しだけ本当のことを入れて嘘をつきます。ある精神科の医者がこんなことを言っています。「神経症の人というのは、幻の家をせっせと建てている人。精神病の人というのは、その家に住みついてしまった人、そして我々、精神科医は、さしずめ、その家の家賃を取り立てている者かもしれない。」精神病の人の特徴をよく言い表しています。幻視、幻聴が見える人は思い込みが激しく、いくら恐れなくても良いといっても聞き入れません。自分は絶対正しいと主張し、周りの人の言うことをいっさい聞き入れません。自分で壁を造り、自分で孤立し、自分を破壊していることに気がつきません。
悪霊というのは、神の言葉を信じさせず、偽りの言葉を信じさせます。悪霊がその人の中に入るためには、偽りの言葉を信じてくれないと入れないのです。すなわち、「同意」が必要なのです。それによって悪霊は、その人を自分の器にするのです。人が悪魔の言葉を信じた時、その人の心と知性は悪魔に支配され、悪魔はその人の中に自分の住まいである地獄を造ります。そこは虚構の世界、ウソの世界、恐れと不安の世界です。しかし人が、神の言葉を信じ聞き入れた時、その虚構の世界は破壊され、その人は自由になることが出来ます。神を証ししているのは聖書だけです。この世は悪魔が働いている世界であり、神を証ししていません。だからこの世から神を見ようとしていけません。聖書から神を知り、この世を見る訓練をしなければなりません。

●大学の頃、私の心は荒れ果てていました。満足することを知らず、あらゆる悪を受け入れ、神を知らず、やがてカルト宗教に囚われてしまいました。しかし聖書を開いてイエス様の十字架の箇所を読んだ時、十字架は自分のためだと分かりました。今まで聖書を読んでいても何も入らなかったのに、ある日、神の言葉が入るようになったのです。神は私の耳を開いてくださいました。最初のアダムが神の声を耳に入れていたように、私の耳は開いたのです。私の耳は回復し、本来の状態に戻ったのです。パウロは弟子であるテモテに「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。…これらのことを努めなさい。そこから離れてはなりません。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。…以上の事をしっかりと守りなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの言葉を聞く人々を救うことになります。」(Ⅰテモテ4:13、15、16)といいました。聖書朗読には力があります。それをする人は必ず進歩し、人の目にも明らかに違うことが分かるでしょう。さらにその人は自分と周りの人を救うこともできるようになります。

●先週「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」(詩編119:68)という言葉を聞きました。神の言葉は私たちの間違った考え方、歪んだ見方を修正してくれます。神は完全な善なる方です。その神がどんなにこの世に悪が満ちても、それを善に変えてしまうというのです。どのようにしてでしょうか。それは神が悪に触れるという方法をもってです。神が触れたものはすべて善になるのです。4世紀のナジアンゾスのグレゴリオスは「実にキリストに受け取られなかったものは癒されない。しかし神と一つに結ばれたものは救われる。」という名言を残しています。キリストは死に触れ、死の棘を抜いてしまい、何の影響もないものに変えてしまいました。どんな悪い出来事が起こっても、それが善に変わるためには神がその出来事に触れ、その出来事の中に働いておられるということです。この「すべて」はどこまで適用されるのでしょうか。悪魔も善なる天使にされ、地獄も天国に変えられるのでしょうか。分かりません。ただ神が創られた世界に悪が残るはずはないと信じたいのです。大切なことは私たちの苦労は必ず報われるということなのです。神に期待して良いのだということなのではないのでしょうか。神の名を呼び、その顔を尋ね、その声を聞き、それを信じて待って良いということなのです。さあ、どんどんキリストに触れましょう。神の言葉、聖霊、聖体、聖堂、祈りを通して神のものをどんどん私たちの中に取り込みましょう。それらは無償で手に入るのです。あなたは限りなく進歩することが出来るのです。