『空しさを超えるもの』 井上隆晶牧師
コヘレト1章1~11節、マルコ12章15~17節

❶【この世は空しい】
コヘレトの言葉とありますが、口語訳聖書では「伝道の書」となっています。コヘレトというのは「伝道者」という意味だそうです。書いたのはエルサレムの王、ダビデの子とありますから、ソロモンだと言われていますが、ソロモンの名を借りた誰かが書いたのかもしれません。
聖書は大胆に「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」(コヘレト1:1)と断言します。「一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、どの川も、繰り返しその道程を流れる。」(4~7)美しい文章です。まるで歌のようです。自然界が巡る様子を描写しながら、人間のはかなさを歌っています。「夏草や兵どもが夢の後」という芭蕉の句を思い出します。この書には「空しい」という言葉が40回も出て来るそうです。この書は徹底的に人生のむなしさを強調します。それゆえ旧約聖書が編纂される時、最後まで正典として入れるかどうかが問題となったそうです。この書があまりにも人生に対して否定的だからでしょう。しかしこの書が聖書の中に入れられているところに聖書のすばらしさがあると思います。
●三浦綾子さんの「氷点」という小説の中に、一人の結核患者が退院の日に病院の屋上から飛び降り自殺をした話が出て来ます。長い間、病苦と闘い、やっとその病が癒されて退院の許可が出たのです。天にも昇る喜びであるはずの彼がなぜ自殺をしたのだろうかと、院長はいろいろと考えるうちに、一つのことを思い出します。前の日に彼を診察し、あす退院してもよろしいと言った時、彼はあまり喜びませんでした。院長が不思議に思っていると、彼はぼそぼそとこんなことを言ったのです。「私の会社は別に私が必要なのではないんです。私が入院すると次の日には、他の人が私の机に座って仕事をし、それでどおってこともないんですよ。」院長はこの言葉を思い出しながら、彼の自殺の原因がそこにあったのではないかと思うのです。
別に私は必要とされているわけではない。私がいなくてもこの世の中は何も変わらない。こんな人生を苦労して生きる意味はどこにあるのだろうというのです。私たちの中には、自分は人に必要とされていると思い、生き甲斐のある日々を送っている人もいます。しかし、この世からも、家族や友人からも見向きもされなくなり、孤独なまま生きている人も多いのです。私たちはなぜ人生を生きなければならないのでしょうか。生きる意味はどこにあるのでしょうか。
私はここを読んでいて一つの映画を思い出しました。
●昔「戦場にかける橋」という映画がありました。イギリス軍将校たちが、日本軍のためにタイ奥地のクワイ川に橋をかける映画です。日本人には橋をかける技術はないのですが、イギリス人にはその技術があるからです。主役がアレック・ギネスだったと思います。捕虜である将校の士気を高めるために、司令官は誇りをもって仕事に当り、やがて立派な橋が出来上がります。一方、連合軍からはその橋を爆破するために工作員が奥地に送り込まれます。列車が初めてその橋を通過する日、その橋は工作員によって爆破されます。造っては壊す、これが戦争であり、人間の愚かさを描いた映画でした。
聖書は決して現実を無視したり、軽視したりしません。現実を現実のまま認めようとしています。現実の苦しさを知らず、宙に浮くような教えを説くだけなら、それはこの現実の世に苦しむ人へのメッセージになりません。神はこの現実の世界に矛盾があること、この世界が理不尽であることを充分に知っておられて、私たちに語ってこられます。知らないのではありません。神は知っていて語るのです。そこに希望があります。
考えて見れば世界の始まりも混沌とした状態だったとあります。「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、空しく、闇が淵のおもてにあり」(創世記1:1・口語訳)とあります。地は空しかったのです。しかし、その空しい闇の淵の上に「神の霊が動き」、「光あれ」という神の言葉があって、この世界は秩序が造られていったのです。神の言葉(キリスト)と神の霊(聖霊)が働かれる時、その空しさは意味あるものへと変えられていくのです。パウロも「主を信じる者は、だれも失望することがない。」(ローマ10:11)と言っています。

❷【神のものは神に返しなさい】
マルコの福音書をご覧ください。デナリオン銀貨というのはローマの銀貨で1日の賃金に相当します。そこには皇帝の肖像と名前が刻まれていました。硬貨や紙幣に王様や支配者の像をつけることは万国共通です。イエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)と言われました。私たち人間は「神の像と似姿」(創世記1:27)によって創造されています。だから私たちは生まれた時から、神様の刻印が押されているのですから、神のものなのです。この世にはたして人間のものがあるのでしょうか。この世界は神が造られた神のものです。「世界とそこに満ちているものはすべて私のものだ。」(詩編50:12)それを神は人間に無償で貸し与えておられるのです。そして国々の領土を定め、それを正しく管理するように人間に命じられたのです。だから大地は神のものです。国も神のものです。決して支配者のものではありません。だから人間が切り売りしてはならないのです。また、イエス様もこの世をぶどう園と譬え、人間はそこを耕し、収穫を神に納める者として言われました。それだけでなく、私たち自身も神のものなのです。「神のものは神に返しなさい」という言葉を何度も読み返し、よくよく瞑想して下さい。自分を神に返すのです。礼拝とは、「自分のためにこの世の物を下さい」といって集める時ではなく、「返す時」なのです。自分自身を神様に返すのです。心を返す、富を返す、栄光を返す、時間を返すのです。家族が亡くなるということは、家族を神様にお返しするのです。この人を貸して下さったので私は守られ、寂しい思いをせず、人生が豊かになりましたというのです。自分が亡くなる時には、自分を神に返すのです。何十年お貸しいただき有難うございました。借りた体と時間と命で、人を愛し、永遠の命と信仰を手に入れました。これはあなたにお返ししますといって返すのです。タラントンの譬えがそうでしょう。5タラントン預かった僕は、それで商売し、10タラントンにして神様に返したでしょう。神に返すのは、また神から受けるためです。神に返したものを神は再び豊かに祝福して、私たちに返して下さるのです。なぜなら神には何一つ不足するものはないからです。だからまず、あなた自身を神の手に委ねるのです。返すのです。そこから何かが始まります。

❸【神と一体になったものは空しさから解放される】
パウロは「私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」(Ⅱコリント4:16)と言っています。外なる人とは肉体のことです。内なる人とはキリストのことです。私たち人間の中には永遠の命はありませんでした。どんなに善い行いをしても、その命は生まれませんでした。しかし、外からその命が人の中に入れば、私たちはその力を持つ者となれるのです。こうして人間の中に入るために、キリストは人間の姿を取る練習をなさったのです。2000年前キリストは天を傾けて地に降り、人間の肉体を受け取られました。キリストの中で神と人が一体になり、死なない体が形成されました。天と地が、永遠と時間が、無限と有限が、不滅性と腐敗がキリストの中で一体になったのです。こうしてわれわれ人類に、天へ昇るための救いの梯子がかけられたのです。洗礼の時、決して死なないキリストの体が、死ぬゆくあなたの肉体の中に埋められたのです。あなたの外側の肉体の命はこの世の時間と共に衰え、弱り、セミの殻のように堅くなり、しぼんでゆきますが、あなたの中に住む別の命、キリストの体は日増しに成長し、やがてあなたの全体を支配するのです。それはまるでからし種のようで、蒔かれる時には小さいのですが、やがてキリストの似姿となり大木のようになりあなたを支配するでしょう。あなたの中にある永遠の命が単にキリストだけだったら、あなたの外側の肉の命が終わった時、キリストだけが残るでしょう。しかし、あなたの中に埋められたキリストの命は、単にキリストだけではなく、あなたと一体となったキリストの命なのです。だからあなたの中にはキリストと一体となったあなた自身がいるのです。それが永遠に残るのです。これは神秘です。だからあなたは決して一人で生きているのではありません。内にキリストを宿す者、キリストと共にこの世を生きる者なのです。このキリストがあなたを天に連れてゆきます。
「私たちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私たちはこの神へ帰ってゆくのです。」(1コリント8:6)とパウロは言いました。本来万物(全被造物)は神に帰るように、つまり神に向かって生きるように創造されていました。しかし人間の罪によってそれが狂い、この世はこの世に向かって生きるようになり、人は自らが創造された土に帰る空しい者となったのです。しかし御子はこの世にやってきて、私たちを神に向かって生きる者へと変えて下さいました。そして御子は人を御自分の肩に担いで、まるで一体になるかのようにして父の懐に私たちを連れ帰ってくださるのです。空しさを担ぐ方が現れたのです。この世を担う方が現れたのです。私はそこに希望を持ちます。ソロモンさん、あなたはこの方を知りませんでしたが、私たちの時代は知っているのです。だからこの世は空しくないのです。