『心配はどこからくる』 井上隆晶牧師
ヨシュア22章24~28節、マタイ7章24~28節

❶【ヨルダン川東側の大きな祭壇】
エジプトを脱出したイスラエルの民に対して、神様はヨルダン川の西側の土地を与えると約束されました。ところが、イスラエルの12部族の内、ルベン族、ガド族、マナセの半部族という三つの部族はヨルダン川の東側に土地を欲しいとモーセに要求しました。ヨルダン川に至るまでに、すでに多くの町々を占拠していたからです。その代り、他の部族が約束された土地を手に入れるまで、彼らの先頭に立って戦い、家には決して帰らないという約束をしたのです。そこでモーセはその願いを聞き入れ、三つの部族は川を渡らず、ヨルダン川の東側に所有地をもらいました。時が過ぎ、やがて他の部族もヨルダン川の西側の土地を手に入れ、戦いは終わりました。そこで男たちは約束通り、自分たちの所有地に帰って行ったのですが、そこで一つの事件が起こりました。彼らはヨルダン川の東側の岸辺に、一つの祭壇を築きました。それは目立って大きい祭壇でした。口語訳では「それは大きくて遠くから見える祭壇であった。」(ヨシュア22:10)と書かれています。その噂を聞いた西側の部族たちは集まり、彼らが反逆行為を行ったと思い、祭司ピネハスと10人の指導者たちを東側の三部族のところに遣わし、このことについて問いただしました。「お前たちが今日、イスラエルの神、主に背いたこの背信の行為は何事か。お前たちは、今日、自分たちのために祭壇を築いて、主に逆らっている。」(ヨシュア22:16)祭壇というのは自分勝手に造ってはならず、寸法も神様によって定められていました。また、その上に献げ物をすることができるのは祭司だけでした。ヨルダン川東側の部族には祭司はいないのです。皆さんも家で勝手に聖餐式をすることはできないのです。
イスラエルの民がそれほどこの行為を恐れたのは、理由がありました。以前二つの事件があったからです。一つは「ペオルの事件」です。それはイスラエルの民が、現地のバアル神(農耕の神・雷の神)の祭壇に犠牲を献げたので、神は怒り2万4千人が災害に遭って死にました。「今日に至ってもまだ清められていないではないか。」(22:17)とあるのでずっとその影響を受けて今でも苦しんでいるというのです。二つ目の事件は「アカンの事件」です。エリコの町と戦った時、滅ぼし尽くしてささげるべき物の一部をアカンという人が盗み取りました。(一枚の美しいバビロニアの服、銀、金の延べ板)そこでイスラエルの民は戦いに負け、多くの犠牲者が出ました。これらの記事から分かるのは、信仰というのは決して個人のものではなく、共同体全体で行うものだということです。一人の罪が、他の兄弟姉妹に悪い影響を与えるのです。祭司ピネハスたちは、三部族が背信行為をすることによって他の部族が打たれるではないかと恐れたのです。それに対して彼らが言った言葉が22節から29節まで書かれています。簡単に言うと、自分たちは決して背信行為をしているのではない。後の時代になって、ヨルダン川西側の部族の人たちが、東側にいる自分たちに向かって「お前たちはイスラエルの民ではないから、主を礼拝してはいけない」というかもしれないので、それを恐れて祭壇を造ったのだ、というのです。28節を見るとこう書いています。「私たちの先祖が造った主の祭壇の模型を見なさい。焼き尽くす献げ物や和解の献げ物をささげるためではなく、あなたたちと私たちとの間柄を示す証拠なのです。」だからこの祭壇は本当に犠牲を献げることができない張りぼての模型であったことが分かります。それを聞いて使者たちは納得して帰って行きました。私はこれを読んだ時、聖書は何でこんな変な物語を載せているのだろうと思いました。彼らはもっともらしい理由を言ったのですが、私は何か気になるのです。

❷【なぜ心配になったのだろうか】
私が気になったのは24節の「私たちがこのことをしたのは、一つの心配があったからです。」(ヨシュア22:24)という言葉です。皆さんだったらどうしますか。こんな大事になる前に、川を渡ってシロにいる祭司の所に行き、自分たちの不安な気持ちを言って、一筆「契約書か」何かを書いてもらったらいいだけのことではないか、何でそんなに同じ部族の仲間たちを信じられないのだろう、と思ったのです。兄弟姉妹を信じられないというのは失礼でしょう。もう「そういうことを言う人だ」と最初から決めつけているからです。だから問題があるのは川向うの部族ではなくて、彼らを信じられない三部族の方なのです。川向こうの部族が何か嫌がらせをしてきたというのなら、話しは別です。しかしここではまだ何にも起こっていないのに、既に将来に対して不安を抱いているのです。こういうのを偶像、虚像を作るといいます。このように人を信じられなくなる理由は一体どこにあるのでしょう。「心配」は一体どうして起こって来るのでしょう。
一つは「罪を犯している時」です。罪がばれて叱られるのではないかという恐れがいつもあり、また自分自身が罪を犯したということで、自分を責めているのでいつも苦しみがあるのです。彼らはヨルダン川を渡らず、神の言葉に忠実に従いませんでした。神の言葉に対して妥協したということが彼らの中に不安を起こさせたのだと思います。
もう一つは、「神の言葉を信じられない時」です。神(具体的にはモーセ)はこの土地でも良いと言って下さったのですが、どうしても信じられないのです。自分たちは従わなかったのだ、やはり民は怒っていて自分たちをいつか滅ぼすのではないか、という自分勝手な思い込みがあったのだと思います。ここを読んでいて思い出すのがロトの物語です。ロトはソドムの町から逃げる時に、町が滅びるということがなかなか信じられませんでした。そこで「山まで逃げることは出来ません。あの小さい町なら近いので逃げることが出来ます」と妥協案を出すと、主は「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町は滅ぼさないことにしよう。」(創世記19:21)と約束してくれました。ロトがその町に着いた時、天から火が降って来てソドムの町は滅んだのです。その後ロトは「ツォアル(小さい町)に住むのを恐れ」(19:30)山の洞穴に住み、もっと悪い生活をするようになりました。この町も滅ぼされるのではないかと不安になったのです。ロトは「その町は滅ぼさない」という神の約束を信じられなかったのです。神の言葉ではなく、自分の判断を信じる人は常に不安がついて回ります。自分ほど不確かな者はいないからです。神の言葉を信じないと、人は必ず不安になります。

❸【あなたは何を最も確かなものとしているか】
福音書に、弟子たちは神殿を見て「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」というと、イエス様は弟子たちに「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(マルコ13:2)と言われたという話が載っています。私たちはこの世に確かさを求めます。そしてこの世の大きなもの、強いもの、立派なものが何とも頼もしく思うのです。しかし神様は「力を捨てよ、知れ。わたしは神。」(詩編46:11)と言われます。力は力を生みます。他人が力を持てば、自分にそれに勝る力がないと不安になります。
●私の友人の牧師が東京の教会で牧師をしていますが、10年間で100名だった信徒を二倍の200名の教会にされたそうです。それを聞いて、私はこの教会に来て26年も経つのに、自分は一体何をしているのだろうか。未だに30人くらいの人を相手に苦労している、自分は何と情けない人間なのだろうかと思いました。そんな時、金曜日の朝に詩編115篇を読んだのです。そこには「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように。」(115:1)と書いてありました。ああそうか、私は自分の栄光を考えていた、しかし聖書は神の栄光を求め、神を喜べと言っているんだと思いました。私たちはキリストという一つの会社に入社したのです。社員は皆、キリストの栄光のために働いています。5つの能力のある者はそれなりに、2つの能力を持っている者もそれなりに、1つの能力を持っている者もそれなりにキリストのために働けばそれでいいのです。キリスト株式会社都島支店に私は配属され、そこの信者を愛し、教え、導き、救い、助け、励まし、時には叱り、祈り続ける仕事を与えられたのです。大切なのは「忠実」であることであり、「仕事の量」ではないのです。キリストが見ておられるのは姿勢であって、量ではありません。一生かけて30人しか救えないとしても、その30人に自分の命を懸け、命を注ぐならそれは貴い人生なのです。渡辺和子シスターも「小さいことに愛を込めなさい」といっています。大切なことは私が褒められることではなく、キリストのみ名が讃えられることです。教会は一つだからです。天と地の教会も、地上のあらゆる教会も一つです。東京の頌栄教会は私の教会なのだと思えばいいのです。私の代わりに戦友が、そこで戦っているだけのことなのです。私の戦場は都島なのです。
このように神を見なくなると、人を見るようになります。天を見なければ、地(横)を見て生きるようになるのです。私たちはこのような悪魔の誘惑に気をつけなければなりません。しかし、み言葉は私たちを救ってくれます。み言葉は私たちの歪んだ目を強制し、誤った生き方を正してくれます。感謝です。
この世に確かなものを求めてはなりません。それはこの世には無いからです。この世のものはすべて移り変わり、変化し、落ち着くことはありません。熊本城の石垣の修復が始まったそうですが、神殿の立派な石も崩れるのです。私たちが本当に頼りとするのはキリストという石です。隅の親石とも言われます。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと。」(詩編118:22~23)と預言され、「私は一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石。堅く据えられた礎の隅の石だ。信じる者は慌てることはない。」(イザヤ28:16)と預言された石です。今日のマタイの福音書の中でも岩を土台とした家は、雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても倒れないといわれています。「岩を土台としていたからである」(マタイ7:25)と言われる岩こそキリストのことなのです。キリストが最も確かなのです。キリストが最も確かということは、キリストの言葉がこの世のどんな言葉よりも確かということです。キリストの体と血が、この世のどんな食べ物、飲み物よりも最も確かだということなのです。この世のいかなる霊よりも、キリストの霊である聖霊こそ、最も確かな霊なのです。
あなたはこの一週間で、どれほどこの確かなキリストの言葉を耳に入れましたか?あなたの中は何の言葉で満ちていますか。この世の不確かな言葉で溢れていませんか。あなたの心が揺らぐのは、あなたが不確かな言葉を頼りとし、不確かな食べ物を頼りとしているからです。最も確かな言葉を聞いた人は揺らぎません。最も確かな者を食べた人も揺らぎません。
ヨルダン川東側の三部族が造った張りぼての模型の祭壇は、彼らの形だけの信仰を象徴しています。中身がないのです。あなたの信仰はどうですか、張りぼての形だけの信仰ではないですかと問われているのです。本物の信仰をしましょう。私は教会に帰って来てキリストに向かい、キリストの言葉を聞き、礼拝し、キリストと交わる時、最も心が満たされ、落ち着くのです。キリスト教は単純です。キリストをどれだけ信じているかだけなのです。私は皆さんがキリストを愛し、深く信じる人になって欲しいと願います。