『小さい者』井上隆晶牧師
1コリント12章27~31節、マルコ9章33~41節

❶【誰が一番偉いか=競走の生き方】
イエス様は自分がやがて十字架にかかって死に、復活するといわれましたが、弟子たちは怖くて尋ねられませんでした。自分たちはイエス様について行けば、有名になり、お金持ちになれると思い込んでいました。だから自分の夢が壊れるような話は聞きたくなかったのです。私たちも弟子たちと同じように夢を持っています。信者さんが夢を追いかけて生きている時、その思いを「そっと」しておこうと思います。最初から夢を壊すようなことを言えば、腹を立てるでしょう。だから「御心ならなるでしょうし、御心でなければならないだけです。祈っています。」というようにしています。
イエス様が活動拠点としていたカファルナウムの家に戻った時、イエス様は弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と聞くと、弟子たちは黙ってしまいました。「誰が一番偉いか」(34節)と議論し合っていたからです。黙るのは「言えば叱られる」からであって、自分では良くないと分かっているということです。それでも偉くなりたいという思いは押さえることが出来ないのです。

38節以下を見ると、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」と弟子たちは言っています。「私たちに従わない」とは「くせ者」の言葉です。自分たちが一番正しいと思っているからです。
●今でも《本家争い》というものがあります。芸術、お茶、お花、食品、店舗、会社、宗教、どれも《本家争い》をします。カトリックはプロテスタントと争い、自分が本家だといいます。カトリックの関目教会ではプロテスタントの洗礼を認めませんから、うちから転会したMさんもKさんも再洗礼を受けました。しかし正教会からすれば所詮、カトリックとプロテスタントの争いは西側のものであって、東側の自分たちには関係がなく、自分たちこそが本家本元だといいます。神戸の正教会に行った時、「自分たちは標識である。標識は正しい道を示すモノであって、動いてはいけない」といっていました。そして皆、私たちの帰ってこいといいます。ばかばかしいです。もともと、《本家》とは何でしょうか?本家とはキリスト自身です。物理的な意味で最初にキリストの教えを受け継いだ人は確かにいるでしょうが、それを受け継いだ者が、キリストの教えを守らないなら、それはもはや本流(聖伝統)ではないのです。その本流から逸脱したのでプロテスタントが生まれたのです。ただ本流(聖伝統)に帰ろうと思っただけです。形だけ本流を行っていても、その魂や信仰が本流であるとは限らないのです。私たちは立派な人が仲間だと何か自分も正しい人になったかのような、また偉くなったかのような錯覚をするものです。本物というのは、イエス様のように生きる人のことではないのでしょうか。
この「誰が一番偉い」「誰が一番正しい」「誰が一番本家か」という思いというのは一体なぜ起きてくるのでしょうか。これは私たち人間が持っている根本的な病は「不安と恐怖」と関係しています。自分は生きていい、自分は愛されていい、自分はここにいてもいいという確かな確証が欲しいのです。そのために他人と競争をし、勝ったらここにいてもいい、他人よりも優れていたら愛される、認められると思い込んで生きています。それが悪魔の知恵であると気がつかないまま社会と両親によってそのような嘘を植えつけられて生きてきました。それは根が深いものです。それを原罪といいます。原罪とは神と人を信頼できないという魂の病のことです。その病の症状が不安と恐れとなって現れてきます。だからいつも競争しなければならなくなるのです。でもこの競争は疲れます。
●星野富弘さんがこんな体験を書いています
「手術が終わって、泌尿器科から整形外科の病棟に移動した時のこと。夜になると廊下で誰かが話しているのが聞こえることがあり、その話に私の名がよく出てくるようになった。それは看護さんの声だったり、医師の声だったり、でも、いつも同じようなことを繰り返して言っていた。「星野さんどうしてまたもどってきちゃったのでしょう。あの人ここに戻ってきてもしようがないのに。ベッドが空くのを待っている人がたくさんいるのよ。ああいう人めいわくだなぁ・・・」。話し声は毎夜聞こえた。わたしはその度に体をちぢめて耳をふさぎたくなった。が気を取りなおして、おちついてみると、それは私にはまったく関係のない話だったり、水道の音だったり、物音一つしていない時もあった。その夜、その話し声の中で、私は明日こそ先生に、私がここにいるのは迷惑なのか聞いてみよう、もし迷惑なら他の病院に移させてもらおうと決心しながら、一生懸命眠ろうとした。しかし、翌日の回診の時になると、先生は力強く励ましてくれるし、看護婦さんはいつも優しいことばをかけながら床ずれの治療をしてくれるのである。」
星野さんは何も出来ない自分が病院のお荷物だと思い、幻聴まで聞くようになったのです。現代社会は「できるか、できないか」に価値を置く社会です。だから何もできなくなると、存在する意味を失ってしまいます。しかし、人が最も安心するのは「あなたがそこにいるだけでよい」という言葉を聞く時であると言われます。「そこにいるだけでよい」は社会の評価基準からすれば怠け者、無力な者、人生の負け組でしかありません。しかし社会が怠け者と烙印を押すメッセージが人にもっとも安心感を与えるとはまことに皮肉なことです。聖書に「蒔かず、刈らず、倉に納めず、働かず、紡がず」(マタイ6:26~)とありますが、それは何もしないということです。にもかかわらず神はその存在そのものを認めておいでになるのです。なにかを「する」ことによって評価を得る生活とはまったく違う世界と、評価基準がここにあります。家に帰ると、そこにいるだけでほっとさせてくれるペットの犬のメルクがいます。まさに「蒔かず、刈らず、倉に納めず、働かず、紡がず」です。彼の仕事といえば、寝ること、食べてまた寝ること、家を汚すことだけです。でも家に帰って来た家族を喜んでくれます。それが癒しになるのです。こういう存在というのは必要なのだと思います。

❷【すべての人の後になる、すべての人に仕える】
そんな弟子たちにイエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35節)といわれました。これをあなたはどう聞きますか。「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になれば、自分はイエス様から褒められ、認められ一番弟子と言われるだろう」というように読んだら、条件として聞いていることになり、結局は競争する生き方をすることになります。そんなことをイエス様は言われたのではありません。この言葉のように生きている見本としてイエス様は一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせたのです。子供が手本なのです。
ペスタロッチという人が、乳飲み子の特徴というのはその字の通り「飲み込む、受け入れることである」と言っています。子供たちは先頭に立って歩くことができません。人の決めたことに従わなければならず、人の言うことを聞かなければ生きられない者たちです。いつも後回しにされ、自分の思い通りに人生を歩けない者です。自分の意志によらずどこかの場所に連れて行かれ、着せられる物を着、出された物を食べます。つまり親を信じて、自分を委ねきって生きるという生き方をしているのです。イエス様は弟子たちに「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受入れるのである。」(37節)といわれました。子供を受け入れるとは「自分の小ささ、貧しさ、弱さを受け入れる、人のいいなりになって生きる不自由さを受け入れる、後回しにされる生き方を受け入れる」ということです。子どものように、神が与えて下さる人生というものを受容して生きる人は、キリストを受け入れ、神を受け入れることと同じなのだというのです。

●幼稚園入園のころから筋ジストロフィーの兆候があらわれ、現在車椅子の生活を送っている石川正一という人が「たとえぼくに明日はなくとも」という書を書いています。
「たとえぼくに明日はなくとも、たとえ短い道のりを歩もうとも、生命は一つしかないのだ。だからなにかをしないではいられない。一生懸命心を忙しく働かせて心のあかしをすること。それは釜のはげしく燃えさかる火にも似ている。釜の火は陶器を焼きあげるために精一杯燃えている。陶器を焼きあげる釜の火は美しい。良い作品を生みだそうと精一杯もえているからだ。そして真剣に生きる人間の姿もまた美しい。悔いのない人生をおくろうと精一杯もえているからだ。完全に燃え尽きること、それを目指して生きて行きたい。人間の心なんて積み木みたいなものなんだね。ちょっとさわればすぐ崩れてしまう。だから神様の根を心の中にたくさんはらしておかなくてはならない。」

●星野富弘さんがこんなことを言っています
「私は自分の足で歩いている頃、車椅子の人を見て気の毒にと思った。見てはいけないものを見てしまったような気持ちになったこともあった。私は何とひとりよがりな高慢な気持ちをもっていたのだろう。車椅子に乗れたことが、外に出られたことが、こんなにもこんなにもうれしいというのに。初めて自転車に乗れた時のような、スキーをはいて初めて曲がれた時のような、初めて泳げた時のような、女の子から初めて手紙をもらった時のような・・・・。でも今、廊下を歩きながら私を横目で見ていった人は、私の心がゴムまりのようにはずんでいるのを多分知らないだろう。健康な時の私のように、憐れみの目で、車椅子の私をみて通ったのではないだろうか。幸せってなんだろう。喜びってなんだろう。ほんの少しだけ分かったような気がした。それはどんな境遇の中にも、どんな悲惨な状態の中にもあるということが。そしてそれは一般に不幸と言われているような事態の中でも決して小さくなったりはしないということが。病気やけがは、本来、幸、不幸の性格はもっていないのではないだろうか。病気やけがに、不幸という性格をもたせてしまうのは、人の先入感や生きる姿勢のあり方ではないだろうか。木は自分で動きまわることはできない。神様に与えられたその場所で精一杯に枝をはり、ゆるされた高さまで一生懸命伸びようとしている。そんな木を友だちのように思う。」
星野さんや石川さんは、まさにすべての人の後になるような人生を送った人だと思います。しかし彼らはそんな最後の者に愛を注いでくださる神様の大きな愛に出会い、神様もそこで大きな業を表わして下さいました。
広瀬さんの所に訪問し、聖餐式をして祈りました。キリストは私たちの為に天から地に降りました。そして私を探して愛し、私の罪と死を終わらせ、御自分と一体にして、私を決して死なない者に変えて下さいました。この世を見ると、悲惨な出来事ばかりですが、聖書を読み、神様が私にして下さったことを思い出すと元気が出て来ます。石川正一さんが言ったように、最も確かな神の愛という根を心の中にしっかり張ろうと思います。そして神様に与えられたその場所で精一杯に枝をはり、ゆるされた高さまで一生懸命伸びようと思うのです。神様を信じて、いただいた人生を受入れ、委ねて生きてまいりましょう。