『キリストの衣に触れる』井上隆晶牧師
イザヤ6章1~8節(旧 P.1069)、マルコ5章21~34節(新 P.70)

❶【預言者イザヤと神様の衣】
イスラエルの国は南北に分裂し、北王国をイスラエル、南王国をユダといいます。イザヤは南王国ユダの時代に、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキアといった王様に仕えた宮廷預言者のような地位にあった者で、同時代の預言者はアモス、ホセアなどがいます。だいたい紀元前750年から694年まで活動したといわれています。当時は北王国イスラエルが滅亡する前の時代で、貧富の差が激しく、不道徳と偶像崇拝が蔓延していた時代でした。そのため北王国は紀元前721年にアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいました。伝承ではイザヤは罪深いマナセ王によってのこぎりで裂き殺されて殉教したと言われています。

「ウジヤ王が死んだ年のことである。」(6:1)ウジヤは16歳で王になり、52年間王位にありました。最初は神に従う正しい王であったようで「彼が主を求めている間、神は彼を繁栄させられた」(歴代下26:5)とあります。戦いに行けば必ず勝ち、その名声はエジプトまで届いたといいます。国内にも良い政治を行いました。ところが国が強くなると彼は思い上がって堕落し、神に背きました。祭司に代わって香を炊こうとし、香を炊いている間に額に重い皮膚病が現れ、宮殿から隔離されてそこで一生を終わりました。強い指導者の死というのは、国にとって痛手であり、国は不安定になります。イザヤは国の将来のことを思って神殿で祈っている時に、この幻を見たのです。
「私は、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」(1節)スキンナーと言う人が「地上の王は過ぎ去った。そして今やイザヤはまことの王を見たのである」と言っています。それは地上の王に並ぶ王ではありません。地上の王の上に高くおられ、御座に着いている神という永遠の王です。地上の指導者がいなくなることは不幸ですが、その王を失った時に、初めて本当の王が見えて来たというのです。具体的に神様の顔を見たのではなく、その玉座と衣を見ました。「衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。」というのはすごいです。神様は高い所におられるだけでなく、その神様の衣が地まで垂れていて、自分が祈っている神殿にいっぱい広がっていたというのです。天と地にまたがっているということでしょう。神様は高い所におられるだけでなく、この大地に恵みを垂れ、触れていて下さるということでしょう。今、この都島教会にも天の玉座におられるキリストの衣がいっぱい垂れて、広がっているというのです。このキリストの衣に触れて病が癒された婦人がいます。これは遠い昔の話ではないというのです。あなたも今、このキリストの衣に触れれば癒されるというのです。イザヤはその時、大天使セラフィムの讃美の歌声を聞きます。大天使セラフィムというのは六つの翼を持っていて、神様の玉座を担ぐ天使のことです。天使長よりも高い地位の天使です。彼らはこう歌いました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主、主の栄光は地をすべて覆う。」(3節)ここから取られた讃美歌が、皆さんが聖餐式の時に歌う讃美歌83番です。皆さんは天使の歌を歌っているのです。聖とは、この世のものとは区別されているということです。
●バングラデシュでIS信奉者による悲惨なテロ事件が起きました。なぜこの人たちが犠牲になったのか、怒りと悲しみが出て来ます。人を人も思わないで簡単に殺す人が増えています。イギリスの地下鉄でテロ事件を起こした犯人に通行人が「お前のようなやつはイスラム教徒ではない」といった言葉が話題になり、英国のツイッターでは首位になっているそうです。ISはいわば、イスラム教のカルト集団のようなものです。彼らは犯罪者であって宗教者ではありません。彼らに憧れる若者がいるのは、カルトに入って行く現実逃避する若者の心理と同じです。彼らはいつか必ず裁かれるでしょう。
神をこの世の延長線上においてはなりません。神とこの世を混同してはいけません。この世は理不尽なことで満ちており、何でも起こるのです。フィリップ・ヤンシーは交通事故に遭った時、「私たちが住んでいる世界は、欠陥があり完全ではない」ということを学んだと言っています。この地は神の御心がなされていません。だから主は御心がなるように祈りなさいと言われました。詩編98:9に「主を迎えて喜べ。主は来られる。地を裁くために。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる。」とあります。神様は必ずこの世を完成するために来られるでしょう。この世は神のものであり、彼の国です。神が植えなかったものはやがて抜き取られ、この世は父なる神に返されます。
●修道院の午後3時の祈りは「キリストの十字架上での死」を記憶するようになっています。その祈りの中にこの天使たちの歌が何度も出て来ます。「聖なる天使と、天使長の群れは、すべての天の大軍と共にあなたを歌っていいます。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、主、万軍の王、あなたの光栄は天と地に満ち溢れています。」十字架の上を天使たちが飛び交っているのです。イエス様の十字架の死によって、天と地は神の愛と命と赦しに満たされたと天使たちは賛美しているのです。
この世が決して滅びないわけは、神がこの世を愛しているからです。聖霊がこの世に満ちているからであり、キリストの血がこの世の大地に流されたからです。神は聖なる方ですが、同時にその衣をこの地に垂れてくださっています。それを忘れないようにしましょう。

❷【祭壇の炭火に触れるイザヤ】
この世とはまったく違う「聖なる神」が、被造物に姿を見せました。神は望む時に、望まれる姿で、望む人に姿を現します。神を見たイザヤの反応はどうだったのでしょう。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者、汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(5節)と書かれています。それは罪の自覚でした。旧約時代では神を見た者は死ぬ、神の声を聞くと耳が痛むと言われ、契約の箱に触れたウザは討たれて死にました。人が自分の汚れを知るのは、清い者に出会った時です。私たちが自分の汚れや罪が分からないのは、あまりにも汚れた者の中にいるからであり、汚れに慣れてしまっているからです。この目はどれだけ汚れたものを見たのでしょう、この耳はどれだけ汚れた言葉を聞き続けたのでしょう。私の五感はあまりにも多くの汚れを受入れてしまいました。
「汚れた唇」という言葉が何回も出て来ます。罪の自覚とは唇=言葉に関係します。彼はこの時まで、祈りもし、民の罪も指摘してきたのですが、神の栄光をまともに見た時、自分自身の偽善、無知に気がついたのです。ヨブと同じです。「私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。」(ヨブ40:4)「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。そのとおりです。私には理解できず、私の知識を超えた驚くべき御業をあげつらっていました。…あなたのことを耳にしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(同42:3~6)人間の唇はいつも嘘にまみれ、それに慣れてしまっています。イザヤは無知を悟りました。滅びを覚悟しました。本当の罪の自覚というのはそういうものです。その時、大天使セラフィムの一人が、イザヤのもとに飛んできました。その手には祭壇から火鋏で取った炭火がありました。彼はイザヤの口に火を触れさせて言いました。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(6:7)これは本当に炭火に触れたのではないでしょうが、そのような霊的な体験をしたということなのです。これはある意味で神に触れられた体験でした。
このことは、清めは人間の心の心情的な業ではなく、神の客観的な業であることを教えています。神様が人間を清めるのであって、人間は自分で自分を清めることはできません。聖なる方は神様だけです。その神様に触れられることをもって人は清くなります。清めは外から来ます。彼がこのように清められた体験をした時、神様の静かな声が聞こえてきました。「誰を遣わすべきか。誰がわれわれに代わって行くだろうか。」イザヤは自ら進んで「私がここにおります。私をお遣わしください」といいました。(8節)彼自身の罪の自覚と、神によって清められる体験をすると共に、新しい召命と使命を与えられたのです。

❸【聖餐によって清められる】
この一連の流れを見てゆくと、これは教会の礼拝、特に聖餐式に似ていると思いませんか。まず天使たちの「聖なるかな」という讃美が歌われます。三位一体を讃美する「三聖唱」といわれます頌栄です。続いて「罪の告白」がなされます。その次に聖餐をいただいて「罪の赦し」をもらいます。最後に「派遣の宣言」がなされます。「誰を遣わすべきか」、「私がここにおります。私をお遣わしください」というのは派遣の言葉です。

●私は洗礼を受けたら清くなり、罪も犯さなくなると思っていました。しかし実際は罪を犯し続けました。聖会へ行って、罪を告白するとすっきりするのですが、山を降りればまた同じように罪を犯します。人の前で告白すれば清くなるのだろうか。罪を告白できる勇気のある人はいいが、勇気のない人はどうなるのかと思いました。「清くなったと信じなさい。そうすれば清くなる」といわれました。いくら頑張って「私は清い。私は清い。」と念じても無理でした。なぜなら、実際に罪を毎日犯しているからです。それを繰り返しているうちに清めが分からなくました。どうしたら清くなれるのかをずっと思い、ある日友人と神戸のハリストス正教会に行きました。とにかくびっくりしました。仏教のお経を聴いているようで何も意味が分かりません。蝋燭を立てて祈るだけで帰る人もいます。立ったままの礼拝で、初めて十字を切り、初めて祭服をまとった祭司というものを見ました。それまでもカトリック教会や聖公会に行きましたが、正教会にはびっくりしました。旧約聖書の世界がそのまま受けつがれてきたような懐かしさを感じ、これが最も古いキリスト教だということを直感し、最も古い伝統的なものを体で感じました。司祭が至聖所から持ってきた聖杯を見た時、喉から手が出るほど欲しくなりました。どんな罪でも告白するから欲しいと思ったのです。私はこれこそ「唯一の聖なるもの」だと瞬間的に悟りました。そして分かったのです。「自分の中には一切聖なるものはなかったのだ。聖なるものは、自分の中ではなく外にあった。それは聖体であり、聖福音書であり、聖堂であり、聖なる教会だった。聖なるものに触れるから、私は聖になるのだ。聖なるものが入ってくるから私は聖なるものになるのだ」と悟ったのです。その瞬間イザヤが祭壇の炭火に触れたので聖になり、罪が取り除かれたことを思い出しました。後で、神父にそのことをいうと、祈祷書の中にその文章がのっているというのです。4世紀のクリュソストモスの典礼文では、聖杯のぶどう酒を飲んだ後、司祭はこのように唱えます。「見よ、これは私の口に触れました。私の不法を除き、罪を清めます。」
今日も、キリストの衣が礼拝堂一杯に垂れています。神様は皆さんのごく近くにいてくださいます。また今日も、皆さんは聖餐に与ります。それはキリストの聖なる体です。衣だけでも癒されるのに、皆さんはキリストのすべてを貰うのです。主は必ずあなたを清め、癒し、健康にしてくださいます。救いはすべて神から来ます。先週、福音とは何でしょうかという話をしました。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」(ローマ10:15)伝令は、バビロンからイスラエルが解放されて帰ってくるという知らせを伝えました。それは驚くべき知らせ、思いがけない知らせでした。「良い知らせ」はギリシャ語では「エゥアンゲリオン」といい、英語では「good news」であり、それを日本語では「福音」と訳しました。福音とは、あなたの罪はキリストによって赦され、あなたは死なない者になり、神の家族となった、神の国は始まったというニュースなのです。それは、あなたがしたことではなく、神様が一方的にあなたにして下さった事なのです。それを喜びましょう。