『パン屑はいただきます』井上隆晶牧師
マルコ7章24~30節、マルコ8章19~21節

❶【イエス様の価値が分かる遠くにいる人と、分からない近くにいる人】
イエス様は、ティルスという外国人の町に行かれました。そこに汚れた霊にとりつかれた幼い娘をもつ、ギリシャ人の婦人がいて、イエス様のことを聞きつけてやってきて、足もとにひれ伏してこう頼みました。「娘から悪霊を追い出してください。」ところがイエス様はその婦人にいいました。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27節)イエス様はユダヤ人のことを「子供たち」といわれ、外国人のことを「小犬」といわれました。つまり軽蔑した呼び方をわざとされたのです。それは弟子たちの不信仰を試すためです。ユダヤ人は外国人に優越感を持っており、彼らを犬と呼んで軽蔑しました。12弟子たちの心の中にもそのような外国人を見下す思いがあったと思います。この言葉を聞いて弟子たちは思った事でしょう。「自分たちの先生は偉いのだ。お前などは相手にしない。イエス様は外国人より、私たちを大切に思っていて下さる。」
●私が正教会に学びに行っていた時、そこにいる信者は自分の所でなされている礼拝や祈祷書の価値を何も気づいていませんでした。ただお決まりの長ったらしい儀式だと思っていました。そこには2世紀から12世紀くらいまでの教父たちの祈りや聖書の解釈がのっていました。興味がある人にはとてつもない宝なのですが、彼らは興味がありません。私はよく「宝の持ち腐れだ」と思っていました。彼らはいくらでも学ぼうと思えば学べるのですが、学ぼうとしません。祈祷書を欲しいとも思いません。私はどうしても手に入れたかったので、何日もかけてコピーをし、製本してもらいました。彼らは「自分たちは正教、最も正しいのだから、お前たちが学べ」という姿勢でした。高慢になると恵みが見えなくなるのです。私たちの霊的な病とは、本当に価値あるものが見えていないということなのです。
このギリシャ人の婦人にとって、イエス様という方は自分たちから遠い存在であり、めったに会えず、手に入れることが難しい最高の恵みでした。しかし12弟子にとっていつもイエス様と一緒にいるので、与えられることが当然となり、求めることもしなくなり、イエス様の価値も見えませんでした。恵みボケです。恵みを当たり前だと思ってしまったということなのです。私たちはどうでしょうか。教会に来れる、聖書を読める、聖餐をもらえる、信仰できることが当たり前になり、恵みにボケてしまってはいないでしょうか。聖書の中に「先の者が後になり、後の者が先になる」という言葉があります。先に信者となった者が後ろの者にされてしまい、後から教会に来た者が、信仰の模範者として先に立つという意味です。最近教会に来るようになったWくんの祈りにはっとすることがあります。恵みというのは難しいものです。多ければ腐るし、見えなくなります。
彼女はとっさに言い返しました。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28節)イエス様に「小犬」といわれても腹を立てることもなく、自らを認めました。何という謙虚さでしょう。自分が正しくない者であること、恵みを受けるのにふさわしくない者であることを認めたのです。プライドが捨てられない人間は恵みが入ってくることを自分で堰き止めてしまうので成長しません。病院に行って「自分は健康です」と主張し、医者の診断を信じないなら、どうしてその患者は癒されることができましょう。高慢は恐ろしいものです。謙虚になり、自分は恵みを受けるに値しないと思う人は、キリストから多くの恵みを手に入れることが出来るでしょう。

❷【神の恵みというパン屑を大切にする婦人】
「小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28節)この婦人はパンの屑でさえも無駄にはしません。僅かなパン屑が自分の飢え渇きを満たし、娘を病から解放することを信じています。聖書の中にはこのような信仰告白をした者や外国人たちがいます。百人隊長は言いました。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば私の僕は癒されます。」(マタイ8:8)。出血の止まらない女は言いました。「この方の服にでも触れれば癒していただける。」(マルコ5:28)彼女も、キリストの僅かの言葉、情け、顧み、憐れみだけで十分であると信じたのです。多くは要りません。ひとかけらの憐れみ(一片)で十分です。イエス様は四千人の給食の時も、五千人の給食の時も、パン屑を捨てないで取って置かれました。人間は自分の必要が満たされたらもうパン屑は残り物であって必要ないのですが、神にとっては屑などというものは存在しないのです。神の言葉も恵みもどんなものでも、捨ててはいけないのです。
●渡辺和子シスターがいつも言っている「世の中に雑用という用はありません。その人が雑にした時だけ、それは生まれるのです。」という言葉を思い出します。

一方イスラエルの民(神の子供たち)は真のパンであるイエス様を何と無駄にしたことでしょう。イエス様はパンの屑を与えたのではありませんでした。沢山のことを教え、奇跡を行い、病人を癒し、悪霊を追い出し、溢れるほどの恵みを与えました。パン全体(つまり自分の体と命のすべて)を与えたのです。しかし彼らはそれを投げ捨てました。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。」(マタイ7:6)はこうして成就したのです。実に外国人を犬と呼んで軽蔑していた神の子であるユダヤ人がその資格を失って「真の犬・豚」となり、「犬・豚」と呼ばれていた外国人が「神の子」となったのです。高慢は何と恐ろしいことでしょう。私たちはどうでしょうか?恵みを無駄に捨ててはいないでしょうか。僅かなパンで十分だと思っているでしょうか。それともまだ足りん、まだ足りんと不平不満ばかりを言っているのではないでしょうか。私たちはこのギリシャ人の婦人のように、「多くは要りません。ひとかけらの憐れみ(一片)で十分です」という信仰を持っているでしょうか。

❸【神のふところを叩き続けなさい】
「主よ、しかし、…子供のパン屑はいただきます。」(28節)主は寛大で憐れみ深いことをこの婦人は信じていました。どんな時も希望を捨てないことです。「あなたの信じたとおりになるように」(マタイ8:13)がこうして成就しました。神を寛大な方だと思えば、あなたにそうして下さるでしょう。神を恐ろしいケチで厳しい方だと思えば、あなたにそのようにするでしょう。「あなたの慈しみに生きる人に、あなたは慈しみを示し、無垢な人には無垢に、清い人には清くふるまい、心の曲がった者には背を向けられる」(詩篇18:26~27)とあるからです。希望をもってキリストに訴えるのです。彼の胸を叩くのです。こうしてこの婦人はキリストが教える前から、彼の教えを実践しました。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)
「それほど言うならよろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」(29節)この婦人の信仰によって悪霊は娘から出て行きました。お母さんが変わることで娘が癒されるのです。悪霊というのは信仰を持つ人の中には住めません。キリストと悪霊とが同居することはありえません。キリストが入ってきたら、偽りの主人は出て行くのです。きれいな水が入ってきたら、汚れた水は自然に出て行くものです。「家に帰りなさい。」彼女は安心して帰ります。何のしるしが無くてもイエス様の言葉を信じて家に帰ります。私たちも同じです。僅かの聖句と聖パンが私たちから悪霊を出すことを信じて家路に着くのです。

❹【私を愛して下さるキリストと私は出会った】
ギリシャ人の婦人は、イエス様に出会って変わったと思います。それは私たちも同じなのです。私は天地が創造される前から、母の胎内に宿る前から、神に知られ、神によってキリスト信者にしようと選ばれ、信仰が与えられました。私がクリスチャンになることは予め定められていました。だから私は瀕死の状態で生まれて来たのに死なずに生かされたのです。カルトに行っても引き戻され、名古屋に転勤になろうとしても留められ、牧師になる道に進めさせられたのです。私は自分が何者であるのか、自分にどんな使命が与えられているのか、自分がどこに向かっているのかも知りませんでした。しかし、私はある時、私を呼ぶ声を聞いたのです。私を創造された方が、この私を求めてこの世に来られ、私を見つけ出し、私を呼ばれたのです。そして私たちはその方について行ったのです。カルトにいた人も、家に閉じこもっていた人も、障碍がある人もついて行ったのです。墓の中にいたラザロも地獄の底で、自分を呼ばれるキリストの声を聞いて躍り上がって出て行ったのです。私たちはこの世で多くの人に出会いますが、キリストとの出会いが最高の出会いなのです。キリストは完全な愛です。私は完全な愛と出会ったのです。完全な命と出会ったのです。コリント13章でパウロは、愛がなければ、たとえどんなに立派なことが出来ても、私は無に等しいといっています。これは「神の愛」のことです。
●フィリップ・ヤンシーが交通事故に遭い、死を覚悟した時、彼の心に浮かんできたのは三つの質問だったといいます。「誰を愛しているのか。どのように人生を過ごしてきたのか。次に何があるのかわからないけれども準備ができているか。」『十字架のめどを通って』という本の著者が天に召され、その20年の記念パンフレットの中に、その著者と親しかった姉妹が回想を書いています。「あなたが亡くなられて20年、あなたと私とのこの世的に見た明暗。あなたは亡くなられたから暗。私は病気が治って結婚して明るいように思うけれども、永遠から見たら20年や30年長生きしたことなど、ほんとうに物の数ではない。」
まことに神の永遠の前には、若死にしたとか、長生きしたとかは小さなことです。私たちキリスト教徒の幸せとは何でしょう。この世で私が何をしたとか、何を手に入れ、どんな体験をしたか、また少し長生きをしたかは大した問題ではないのです。いくら健康で長生きしても、神の愛に出会わなければ、その人の人生は無に等しいのです。私たちはこの世に生まれてきて、私を愛して下さる神がおられるということを知ったということ、永遠の神の愛に出会ったということの方が、最も大切であり、最高の幸せなのです。