『聖霊の働き』 井上隆晶牧師
詩編36編10節、ヨハネ16章4~15節

イエス様は十字架につけられる前夜、12弟子と最後の晩餐をし、その席上で様々な教えを語りました。それらは13章から16章にかけて記されていますが、この世を去る悲しみと、父なる神のもとに帰る勝利の喜びが一つに結びついているところに特徴があります。今日は16章から聖霊について学びます。

❶【イエス様が去る意味~聖霊を求める人に変わる為~】
「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたは誰も『どこへ行くのか』と尋ねない。」(5節)弟子たちはイエス様が死ぬという予告を聞いても誰も質問しません。彼らの心が恐れでいっぱいで、聞きたくなかったからです。そんな彼らにイエス様はいいます。「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。私が去って行かなければ弁護者はあなたがたのところへ来ないからである。」(7節)イエス様がこの世を去らなければ、聖霊は来ないというのです。キリストの業はある意味で聖霊の業を準備したといえるでしょう。「私が来たのは、地上に火(聖霊)を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(ルカ12:49)とあるからです。聖霊を地上に降すことは、父と子の切なる願いであり、地上における神の救いの計画の究極的な目的なのです。聖霊を受けることが救いの完成です。イエス様がこの世にいる限り、弟子たちは聖霊を必要とは思わず、聖霊を求めることも決してしなかったでしょう。知恵と力と命の源泉であるイエス様が自分の側にいれば、安心だったからです。明るい光があれば、人は自分の暗さに気づきません。しかしイエス様が去れば、状況は一変します。弟子たちは自分の無力さと無知と不足に気がつきます。今まで総てを行っていたのはイエス様であったことに気がつくでしょう。彼らは再び、光と力と命と知恵を求めなければ生きられなくなるのです。
●80代の母親が60代の統合失調症の息子の面倒を見ていました。母親が亡くなった途端に、彼の病状は良くなったそうです。何でも面倒を見てくれ、尻拭いをしてくれる人が側にいたら、その人は求めることもせず、良くなりたいとも思わなくなります。
信仰生活には自分の惨めさを知って、「良くなりたい」と求めることが大事なのです。落ちる所まで落ちた人は、自分の無力を知り、神に手を伸ばし始めます。しかし落ちない人は、求めないのです。本人が「助けてください」と求めないのに、周りの人が心配して先に助けるのは良くないのです。本当に求めるまで放っておくのも救いです。
❷【聖霊が明らかにする三つの誤り】
「その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(8節)「明らかにする」と訳されているギリシヤ語は「エングコー」といい、「徹底的に究明して反対者を破る」という意味です。文語訳では「誤りを認めさせる」と訳していました。この世の人は「罪、義、裁き」をあまり深く考えようとしませんが、聖霊が来ると「罪、義、裁き」について真剣に考えるようになるということなのです。これは神学用語で「終末論的に考えるようになる」ということです。「罪についてとは、彼ら(世)が私を信じないこと。」(9節)この世の人の罪とは法律を犯すことであり、ユダヤ人にとってはモーセ律法に背くことですが、ここではキリストを信じないことが罪だといいます。キリストを必要としないこと、キリストの言った言葉を信じないことが罪なのです。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること。」(10節)世の人の義とは、立派な行いを指します。しかし聖霊が働くと、自分は義しい人間ではなく、キリストだけが正しい方であると分かるというのです。キリストの正しさが最高に現れたのが十字架の場面です。百人隊長は「この人は本当に正しい人だった」と告白しました。罪もなく十字架に挙げられたキリストを、父なる神はよみがえらせ、天に昇らせ、御自分の右の座に着かせました。キリストの十字架の前では、すべての偽善、嘘はばれてしまいます。「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」(11節)裁きについてもこの世の人はいい加減です。最後の審判ということ、罪の報いを考えません。この世の支配者とは悪魔のことです。悪魔がキリストによって断罪されるというのは、悪魔の嘘と無力さがはっきりとあらわになるということです。
●これはカルトの説得をしているとよく分かります。まず、この世の人は聖書を読んでも信じません。キリストがされた出来事を他人事だと思って聞いています。あなたの罪の為だと言っても信じません。「私は罪を犯してことはない、罪人ではない」と言われたご主人がいました。自分の罪で苦しみません。キリストの十字架の出来事を読んでも、この人は正しい、この人のように生きたいとも思いません。神に敵対する悪魔や自分の悪は必ず裁かれるといっても、恐れません。聖霊を受けないと、人はまるで闇の中にいるようなものです。

❸【徐々に啓示される神の真理】「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今あなたがたには理解できない。しかしその方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(12節)聖霊が来ると、真理を教えてくれるというのです。この場合の真理とは、科学的な真理のことではなく、聖書の教える真理のことです。すなわち、神とは、罪とは、救いとは、命と死とは、神の国とは、という真理です。人間はすぐに真理を悟れるようになれません。年齢に従って、信仰の度合いに従って、求める度合いに従って、悟りは段階的に与えられます。教父たちは面白いことを言っています。
●「旧約は父をはっきりあらわし、同時に子をぼんやりとあらわしました。新約は子を啓示し、同時に聖霊の神性をほのめかしました。今日、聖霊は、私たちの間に生き、一層はっきりと知られています。なぜなら父の神性が全く認められていなかったときに、子を公然と説くことは危険だったのです。さらに子の神性が認められていない限り、あえて聖霊を過度に強調することは誤解を招きかねなかったからです。…むしろ順々に…三位一体の輝きが輝き出ることが適切だったのです。…あなたにも、どのようにして光が少しずつ私たちのもとに届いているかお分りでしょう。…私たちはこの順序が尊重されるべきだと考えます。…区別もなく直ちに神の秘儀があらわになるのは軽率でしょうし、すべての隠しおかれたものがすぐにあらわになるのは敬虔ではないでしょう。前者のようであれば外部の人々は害されるでしょうし、後者のようであればわれわれから離反する兄弟もあらわれてくるでしょう。」
聖霊はキリストのものを受けて、私たちの中にやってきます。「わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」(ヨハネ16:14)とあるからです。聖霊がひそかにあなたに語る時、それは同時にキリストがあなたにささやいているのです。聖霊はキリストに代わってあなたにささやいているからです。パウロは「霊的なものによって、霊的なことを説明するのです。」(1コリント2:13)と言っています。聖書は聖霊によって書かれましたから、聖霊によらなければ意味が分かりません。書いた者でなければ内容は分からないでしょう。神のことは同じ神でなければ分からないのです。同質な者だけが、お互いを知り教えることが出来るからです。有限な者(人間)が、無限な方(神)をどうして知ることができるでしょう。だから聖霊を受けた者だけが、聖書が分かるのです。牧師の中にも霊的な人と、そうでない人がいます。聖書やその他の知識は豊かなのに、なぜか心に染みて来ない。原因は聖霊です。聖霊が働くと、内側から力と喜びが湧いてきます。聖霊が人を変えるのです。聖霊は祈り、求める者にしか与えられません。だから祈らない者が聖書を語っても力にならないのです。また、聖霊は聖書に隠されている神の意志や計画を教えて下さいます。聖霊は一冊の本を製本している糸のようなものです。糸がなければ書物はバラバラになります。しかし、聖霊によって聖書を読むとき、すべての箇所がつながり、ばらばらだったパズルがだんだんとその全体像を現してくるように、意味が見えてくるのです。聖書を読むときにはまず祈り、聖霊を求めなければなりません。

●光は少しずつ私たちのもとに届きます。私たちは聖霊という光によって、徐々に強い神の光に慣れるようになります。あなたが自分を光に慣れさせた度合いに応じて、天からの光である聖霊はあなたの中に入るでしょう。暗闇の中にいて光を見たことがない人に強い光を見せても、目を開けることができないばかりか、かえって目を傷つけることになります。強い光に耐えられるようになるためには、徐々に光に慣れさせることが必要です。それが地上での修道生活、祈りと礼拝生活なのです。天国の光に私たちは耐えられません。神は太陽よりも輝く光です。あなたの罪、汚れはすべて露わになります。あなたが天国でキリストの前に立つ時、耐えられません。だからこの世で肉という衣を着、教会という姿を取った穏やかな光であるキリストの前に立ち、まず自分を照らすのです。私たちは自分の隠れた罪や汚れを突然、完全に、公にさらされるなら耐えられなくなるでしょう。そんなのは平気だという人もいますが、それはまだ罪が見えていないからです。それはまるで裁判のようなものです。しかし病人が自分の傷や膿や醜い姿を、自分を愛し、憐れむ方に隠れた所でやさしく触れてもらうなら、やがて醜い自分を受入れることもできるようになるのです。聖霊に照らされた人は、必ず自分の罪(本当の姿)が見えるようになります。
●先日、「ほんまでっかTV」というテレビ番組で、「死後の世界はあるのか」というテーマを取り上げていました。心理学の植木先生が「死と再生を繰り返した人ほど、死に対する恐怖がなくなる」といっていたのが印象的でした。結婚、子供や親との別れはすべて死と再生だというのです。これは淀川キリスト教病院の柏木哲夫先生もいっておられたことです。「小さな死(=喪失体験)を多く経験してきた人ほど、大きな死を受入れられる」というのです。
先日、比叡山に行って、そこのガイドの人から興味深い話を聞きました。その方は「延暦寺は日本仏教の総合大学であり、心を洗う所です。何かを持って帰るよりも、捨てて帰ってください。」と言われました。洗うのだから捨てるのです。教会も同じだと思いました。礼拝で「今日は何かいい話が聞けるかな」だけで来てはいけません。礼拝に来たらまず何かを捨てることをしなければなりません。自分の思いを捨てる、誇りを捨てる、恨み、憎しみを捨てるということです。捨てなければそこに悪魔が働きます。まず死ぬことです。再生はその後にやってきます。死なないで何かを手に入れようとするから駄目なのです。死ねば多くの実を結ぶのです。祈りがそれを助けてくれます。イエス様は「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒1:8)と言われました。聖霊が来てくれなければ力はもらえません。生きる力も、罪と戦う力も、人を愛する力も私たちには無いのです。私たちが弱いこと、罪深いこと、どうしようもないことを予め知っておられてイエス様は私たちを選ばれました。だから自分の弱さや失敗を隠さなくていいのです。そんな私たちが神様の道具となるためには、どうしても聖霊の力が必要なのです。これは約束です。だから求めるのです。「約束された聖霊よ、来てください。弱い私を助けて下さい。あなたが始められたのです。どうか途中で救いの業を辞めないでください。塔を建て始めたのに、土台だけで終わったといって世の人に笑い者になりませんように。約束された聖霊よ、来てください。哀れな私の元に来て下さい。私の傷をあなたの油で癒し、キリストの像を回復させてください。」と祈りましょう。祈ると、不思議と内から力が出て来るのです。天が開け、空気が澄んでくるのです。私は聖霊の力を知っています。具体的に、忠実に、諦めないで、今日から祈りましょう。