『永遠に共にいる別の弁護者』 井上隆晶牧師
使徒2章1~8節、ヨハネ14章15~24節

今日は聖霊降臨祭です。ギリシヤ語で「ペンテコステ」といい、五旬祭ともいいます。イエス様が復活して50日後に約束された聖霊が使徒たちの上に降り、彼らはまるで別人のように大胆に伝道に出かけてゆきました。聖霊降臨祭というのは、復活祭や降誕祭にくらべると、あまり勢大に祝われることはありません。それは聖霊を説明するのは難しいからです。霊ですから目に見えません。聖霊のことはよく風と譬えられます。風は目には見えませんが、吹くと音がしたり、葉が揺れたりします。同じように聖霊がその人に吹くと、その人に必ず変化が起こるのです。また聖霊は神の命をもって来ます。命の特徴はじっとしていないということです。聖霊に神の命をもらった人は、生き生きとして必ず神様の事を伝えたくなります。また聖霊はとても謙虚なお方で自分自身をいつも隠されます。昔の人は、聖霊は天からの水のようなものだといいました。水は天から降って大地にしみ込み、それぞれの植物の中に吸い上げられ、植物にそれぞれの実を結ばせます。自分は姿を隠しますが、果物の実の中にみずみずしい姿で隠れて存在しそれぞれの味を与えます。聖霊様はそれと同じようなものです。私たちの魂に降り、私たちをキリストの似姿に変え、実を結ばせるのです。事実、この方が来て下さらなければ、イエス様の言葉が分からず、イエス様を信じることもできず、罪を知る、悔い改めもできず、教会も生まれず、聖書も書かれず、水も清められず、パンもブドウ酒もキリストの体にならず、教会の信者は生まれず、悪霊は出て行かず、祈りもささげられず、喜びも希望も湧くこともなく、平安は生まれず、伝道もできず、何もできないのです。すべての信仰生活の初めにこの方は来て下さり、共にいて下さり、後ろから執り成してくださいます。私たちの上にとどまり、私たちの中に住まい、私たちの前にいて導き、私たちを包んで下さいます。私たちの中に住んで下さるほどに最も親しい神なのです。今日は聖霊についてイエス様が教えて下さった箇所から学びましょう。

❶【別の弁護者】
「私は父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)聖霊のことをイエス様は弁護者と言われました。口語訳では「助け主」と訳し、正教会では「慰める者」と訳しています。ギリシア語では「パラクレートス」といいます。パラとは「隣」という意味、「クレートス」というのは「叫ぶ」という意味です。いつもあなたの隣にいてあなたの為に祈り、叫んでくださる方という意味です。あなたの為に祈るためには、あなたの悲しみや苦しみを知っていなければできません。神は私の辛さを知っていてくださるということです。
●先日、大阪私立大の建築学科の学生がこの教会を見学したいといって来られました。町の中にある地域に根づいた小さな教会に興味があるというのです。家庭的な雰囲気が好きだというので、彼に言いました。「家庭的な雰囲気というのは、小さいから出るのではありません。その教会の牧師と信徒の関係が密で会って、家族のようだから出るのです。悲しみも喜びも共に体験するから出るんですよ。牧師が信徒の苦しみや悲しみに無関心なら家庭的な雰囲気は出ませんよ。この寄り添う、共に苦しむということが大切なのです。」
聖霊は私たちに寄り添い、共に苦しみます。だから私たちの悩みを知っているのです。最近は「ために」ではなくて、「共に」という言葉が良く使われます。「心なごむ会」も前は「心病む友と共に」という名称でした。「ために」は上から目線で、一方的ですから良くないのです。「ために」だったら自分のペースでできます。しかし「共に」は相手と歩調を合わせなければなりません。合わすのは我慢と忍耐が伴います。自分が傷つき、犠牲になることもあります。
聖霊のことを「別の弁護者」と言っています。ということはもう一人いるということです。つまり一人目の弁護者がイエス様であり、二人目の弁護者が聖霊様なのです。「霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきか知りませんが、霊が自ら、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26~27)、「誰がわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:34)私たちはキリストと聖霊という二人の弁護者に守られているのです。キリストは父なる神の右に座して弁護し、聖霊は私たちの内側から弁護してくださるのです。私たちは辛くなると、「誰も私の苦しみを分かってくれない、誰も協力してくれない、私を助ける者はいない」と思ってしまいます。でもそうではないということなのです。この二人の方が、私たちと共に苦しまれるのです。私たちは神の家族になったからです。神が私と共に苦しんでくださるとはすごいことです。

❷【永遠に一緒にいる霊】
「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)イエス様は、父にお願いして聖霊を送って下さり、弟子たちと永遠に一緒にいるようにしてくださいました。「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻ってくる。」(18節)とも言われています。イエス様は、弟子たちだけで信仰生活をさせるようなことはなさいません。信仰者は一人で信仰するのではありません。キリストと聖霊と共に信仰生活をしているのです。
聖霊は私たちと永遠に「一緒」にいてくださいます。「永遠に」とはこの世を超えてということです。この世でも来世でも聖霊は私と共におられます。私の肉体が朽ちて土に帰っても、この私と離れません。ということは私の存在はなくならないということです。共にいるためには存在していなければならないからです。聖霊が共にいてくださるから土である私は、復活するのです。「イエスを死者の中から復活させた方の霊(聖霊)が、あなたがたの内に宿っているなら、…その霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」(ローマ8:11)聖霊はその初め、人間の中に住んでいました。アダムが創造された時、神はその鼻に「命の息=聖霊」(創世記2:7)を吹き入れられたからです。しかし、アダムが神から離れたので、聖霊も離れ、人間は死にました。だから私たちの体に聖霊が帰ってくることは、その創造目的を完成させることなのです。聖霊も帰りたいのです。
◆『来たれ、まことの光よ。来たれ、永遠のいのちよ。来たれ、隠された神秘よ。来たれ、絶えまない喜びよ。来たれ、すべてを救う希望よ。来たれ、死者の復活よ。来たれ、願うだけですべてを実現し変容する方よ。…来たれ、地獄に伏す私たちのもとへ。来たれ、哀れな私の心がかつて愛し今も愛している方よ。来たれ、ただ一人で孤独な私のもとへ。来たれ、息吹よ、私の生命よ。打ち砕かれた私の心の慰め主よ。』(新神学者シメオン)
聖霊は神であり火です。そのままあなたの中に住めば、あなたは焼け死ぬでしょう。神は火だからです。しかしあなたは死にません。なぜならこの方が、自分の力を弱めて、あなたに合わせてあなたの中に住むからです。なぜ、神は土であるあなたの中に住むのでしょう。それは永遠の体に住む練習をしているのです。

❸【キリストと運命共同体になる】
「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(19節)私が大好きな御言葉の一つです。キリストと弟子たちは一心同体、運命共同体だというのです。私の存在は、すべてキリストにかかっています。キリストが死ねば私も死に、キリストが復活すれば私も復活します。キリストが頭なら私は体です。私は木の幹につながった枝のようなものです。
●私の力は、礼拝と祈祷の中で与えられます。礼拝をすると私はお腹の中から泉のように力が湧いてくるのを感じる時があります。聖餐を食べた後の感謝の祈りの時がピークです。何かが湧いてくるのです。それが湧いてくると、聖書が分かるようになり、すべてがつながり、神様の愛が分るようになり、その日一番言いたかったことが分かり腑に落ちるのです。だから祈りがどんどん口から出て来ます。私はこれが聖霊の力だと思います。そうすると、手を置けば必ず癒されるという確信が出て来るのです。悪霊も逃げて行く。自分が神様の道具になったような気がするのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(使徒1:8)というのは本当だと思います。

❹【聖霊を宿した人が必要】
「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(21節)キリストを愛するとは、キリストの言葉を守るということです。「あなたがたは私を愛しているならば、私の掟を守る。」(15節)とあるからです。神の言葉を守っているかどうかが、神を愛しているかどうかのしるしになります。神と人を愛するという言葉を守るということです。キリストを愛し、その言葉を守ろうとする者は、父なる神に愛されます。片思いということは決してありません。神を愛する人は必ず報われます。また、そのような人はキリストが自分のことをもっと良く分かる様に、教えて下さるといいます。「現す」というのは「教える・見せる」ということです。神を愛する人は、神のことがどんどん分かるようになるということです。これは人間関係でも同じです。「父とわたしとは、その人のところに行き、一緒に住む。」(23~24節)神を愛する人は、神に愛され、父と子が聖霊と共にその人の内に住むとあります。
昔の人は、使徒のことを「神の笛」といいました。笛の中に風(息)が入るといろんな音色が出ます。弟子たちの中に神の息である聖霊が入った時、彼らは神のことを自由に語り出したからです。笛も息が入らなければただの穴の開いた棒です。穴が開いていていいと思います。つまり欠けがあっていいんです。恐れていてもいい、不安でもいい、ちゃんと出来なくてもいい、病気でも、障がいがあってもいいのです。むしろ人生に穴が開かなければ、人生が破れなければ、神の息が来ても良い音色は出せないんです。弱さを知っている人こそ、神様の霊(息)の道具になれるのです。

●教区総会で、村山盛忠先生が説教をしてくださいました。
「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく、生ける神の霊によって、石の板ではなく、人の心の板に書きつけられた手紙です。」(二コリント3:1~3)私は先に、聖霊は分かりにくいと言いました。隠れているからです。父のことはイエス様が教えます。イエス様のことは聖霊が教えます。聖霊のことは実は信者が教えるのです。そのことをここで書いています。信者さんとは神様からの手紙だというのです。手紙は本人の姿は見えなくても、相手の思いを表わすものです。同じように信者を見たら、神様が分かるというものだというのです。このように聖霊によって、キリストの存在を示す者がこの世には必要なのです。
昨年、村山先生はロサンゼルスのあるシリア正教会に行かれました。シリア正教会は5世紀に教理ではなく、規則によって異端とされ(ギリシア語の礼拝をしなかったということ)、消された教会だそうです。(私の理解と少し違います)「シリアのエフレムの祈り」を私たちはレントで行っていますし、シリア正教会は異端ではないのですが。シリアというのは、アッシリアの末裔なんです。そのシリアに今、イスラム国が支配しているのも不思議なことです。アラム語、シリア語、英語の礼拝を行っていたそうです。教会にはエジプト人、レバノン人、イラク人、イラン人、シリア人が共に礼拝をしていました。そして聖餐に与ることができたそうです。「あなたは仏教とですか」と聞かれ、「いいえ違います。キリスト教徒です」というと「それなら与りなさい」と言われたそうです。考えられないことです。他の正教会では、プロテスタントは聖餐に与れません。その教会の司祭の父はアルメニア人でした。アルメニア人はトルコによって500万人が虐殺されました。そこで彼らの父祖はエルサレムに難民として逃げてきました。そして第二次世界大戦がはじまり、再びアメリカに難民として渡りました。司祭は、「私の国はこの教会です」と言われたそうです。何度も難民になり、国を追われた人にとって、神の国だけが唯一の平和の国だからです。
この話を聞いて、この司祭はすごいなと思いました。辛い思いをしたからこそ、苦しむ人の心が分かるのだと思います。彼の人生に穴が開き、破れてしまいましたが、聖霊という風が良い音色を出したのです。彼こそ、キリストからこの世に遣わされた手紙なのです。今でもキリスト教のある教派では他の教派を認めない司祭たちがたくさんいます。ある教派は私たちの洗礼は無効だとして再洗礼をします。一つになろうとする働きが時に、無力に思えることがあります。でも私たちは闘おうと思います。クリスチャンが罪と悪と闘うのは、神に罰せられるかもしれないという恐怖からではなく、神が私たちを愛してくださったからです。裁きはもう終わったのです。倒れても決して見捨てられません。罪を犯しても裁かれません。ただキリストに愛されたからこそ、自分の中の罪と世の罪のために戦うのです。時に負けて倒されることもあります。ある修道士は言っています。「戦う者が傷つくのは当たり前である。子どもを見なさい。何度、倒れても立ち上がる。倒れても起き、倒れても起きなさい。それを一生やり続けなさい。それで十分である。」
私たちもキリストからこの世に遣わされた手紙なのです。聖霊に満たされて、キリストの心をこの世に見せる者になりたいと思います。聖霊に満たされて、キリストの音色を出す器に成りたいと思います。