『わたしに従いなさい』 井上隆晶牧師
箴言4章13~19節、ヨハネ21章15~22節

❶【神をあなたの限界ある愛で愛しなさい】
食事がすむと主イエスの方からペトロに近づいてきて語られました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」(15節)「シモン」は彼の本名であって、信仰以前の古い自分、弱いありのままの自分を意味しています。「ペトロ」と呼ばれる時には、主によって完成される新しい人、信仰の人を意味しています。彼の内にはこの二人が同居しています。私たちも同じです。信じきれなくてすぐに疑い絶望する古くて強情な自分と、希望をもって信じて立ちがる自分の二つが住んでいます。「この人たち以上」の「この人たち」とは、ペトロ以外の6人の弟子たちのことです。なぜ、イエス様はこんなことを聞いたのでしょう。それは以前、ペトロがこう言ったからです。「たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)それに対して主は「あなたは今日、今夜、にわとりが二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(同14:30)といわれると、ペトロは「力を込めて言い張った。たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(同14:31)と言いました。しかし、イエス様が捕まると、ペトロは後をついて行き、大祭司の家の中庭でたき火にあたりながら、女中に「あなたもあの人の弟子だ」と見抜かれた時、「そんな人は知らない」と三回誓いました。イエス様が問われた「わたしを愛しているか。」の「愛」という字はギリシア語で「アガパオー」といって、神の愛に用いられる言葉です。最も崇高な神の愛、罪人を愛する犠牲の愛です。だからイエス様は「ペトロよ、お前は今も、他の弟子たち以上に、自分の命を犠牲にしても私を愛するか」と尋ねたのです。それに対してペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛している(フィレオー)ことは、あなたが御存じです。」と答えました。しかし、ペトロの答えた「愛する」はギリシャ語で「フィレオー」という単語が用いられています。この愛は「家族や友人に対する愛」の時に用いられる言葉です。ペトロは「アガパオーの愛」を用いませんでした。自分の身を犠牲にしてでもキリストを愛することができなかったからです。この後イエス様は二回、「わたしを愛しているか。」という同じ質問をされますが、三度目は「フィレオーの愛」で愛しているかと問われました。ペトロは悲しくなって「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛している(フィレオー)ことを、あなたは良く知っておられます。」(17節)と答えました。
ペトロは自分の中には、イエス様のために命を捨てるほどの犠牲の愛はないことを認めたのである。今度また、試されたら再び自分は裏切ってしまうであろう。イエス様を愛すること、イエス様を信じること、イエス様についてゆくこと、これは人間の力や頑張りでできるものではありません。人間の力では限界があるのです。神の助けがなければ出来るものではありません。信仰も愛も上からの賜物であり、神によって与えられるものなのです。人間にできるのはせいぜい自分を愛してくれる者を愛し、自分が好きな者を愛することだけです。まことに気まぐれである。そういう者であるということを知って、出来る限り愛することだけで十分なのです。
●本田哲郎神父は「愛するということは人間には出来ない。せいぜいできるのは、大切にすることだけだ。」と言っていました。
ここでペトロが「あなたがご存じです」(15、16節)「あなたは何もかもご存じです。…あなたは良く知っておられます。」(17節)と言っている言葉に目を留めましょう。以前のペトロは、自分の事は分かっていると思っていました。しかし今のペトロは「自分のことを神はすべて知っておられた。私は自分のことも神のことも何も知らなかった」という気づきがあります。信仰とはそういう気づきです。
●朝の祈りの時に、祈祷名簿を読み上げていて気づいたことがあります。多くの人がこの教会に来て去って行きました。多くの人が信仰から離れて行きました。多くの先輩や先生方、私を助けてくれた人たちが亡くなり天に移されました。しかし私はまだこの世に生きています。信仰生活を続けています。自分は生きているのではなく、生かされたのです。信仰しているのではなく、信仰させられているのです。私にはまだ今日があります。体が動き、目も見え、手も動き、足も動き、耳も聞こえます。まだ時間があります。するべきことが出来るということです。熊本で50人近い人が亡くなりました。若い人もいました。私はまだ生きています。なぜ命が取られたのがあの人であって私ではないのでしょう。不思議です。もし今日を怠惰に生き、投げやりに生き、文句ばかり言って生きたら、死んでいった人たちは私に言うだろう。私にもしあと一日、一年命が与えられていたらもっと大事に生きたのに。すべきことが出来たのに。あなたには命と時間が与えられているのにどうしてそれを無駄に使ったのかと叱られるでしょう。中島恵美子牧師がよく言っておられました。聖くなるとは、自分の惨めさや無知や弱さが益々見えるようになってきて、神様の大きさ、広さが益々見えるようになってくることだと。「わたし、わたし」が無くなってきて「神よ、あなたが、キリストよあなたが」になってくることだと。
私にはまだ時間があります。しようと思えば、なすべきことが出来ます。与えられた時間、命を使って神の為に働こう。神は私の生涯の初めから、いつも共にいて下さいました。私と共に歩んでくださいました。今も共におられます。私の中に、私の横に、私の前におられ、私と周りの人の間におられ、私を導いてくださいます。だから希望をもって生きようと思うのです。
❷【わたしの羊(教会)の世話をしなさい】
主はペトロに対して「私の小羊を飼いなさい」(15節)「私の羊の世話をしなさい」(16節)「私の羊を飼いなさい」(17節)と3回言われました。羊とか小羊というのは「キリストを信じる信者または教会」のことです。「飼う・世話をする」というのは教え、養い、育て、守ることを意味しています。空腹の時には食べ物を与え、汚れた時には洗い、病の時には薬を与え、迷子になったら連れ戻す、それが飼う、世話をするということです。これがペトロに与えられた新しい使命でした。イエス様のために死ぬことはできないが、これからは教会のために自分の命を用いてゆくことはできるからです。私たちが自信を失った時、この「私を愛するか…私の羊を飼いなさい」という言葉を聞かなければなりません。不完全な愛でいいから、神から託された仕事に向かおう。私の愛し方でよい、と主は言って下さいました。私の弱さ、個性を主は知っていてくださいます。知っていて選び、知っていて仕事を託されたのです。だから、出来る限りをすればそれでいいのです。
●先日、TVでスタンフォード大学のケリー・マクゴニカル先生の授業をしていました。「ストレスはあった方がいいというのです。イワシの群れに天敵であるサメを入れると、寿命が1.5倍伸びるそうです。子ザルを母サルから引き離すと、引き離さなかった子ザルよりよく育ったというのです。ストレス体験から成長するらしく、それをPTG(PTSDではなく)といいます。逆に退職してストレスの無い生活をすると鬱になる割合が40パーセント増えるそうです。辛いことがあって大きなストレスを感じた時、ボランティア活動をすると早く立ち直るそうです。人の世話をすることは自分自身を一番立ち直らせることになります。

❸【わたしに従いなさい】
この後、主はペトロに言われます。「あなたは若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯をしめられ、行きたくないところへ連れていかれる。」(18節)「両手を伸ばして、…行きたくないところへ連れていかれる」というのは、ペトロがやがて十字架に手を広げられ殉教することを意味しています。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとしてイエスはこういわれたのである。」(19節)とあります。私たちは栄光というと、何かを貰うことだと思っています。私だったら教会を建て、大きく成長させ、人々が増え、盛んになり、教会も豊かになることが神の栄光だと思ってしまいます。しかしここでは失うことです。十字架の死が栄光だと言われています。栄光とは、神の現れのことです。人と共に苦しむ神を現すことも栄光なのです。人に馬鹿にされ、人に捨てられても人を祝福し、祈ることが神の姿を現すことなのです。
信仰のスタイルが変わらなければならないということです。つまり「行きたい所へ行っていた」信仰のスタイルから「行きたくないところへ行く」という信仰のスタイルに変わるということです。皆さんが行きたい所とはどこですか。らくちんで楽しくて、良い人ばかりがいて、気持ちがいい所なら誰でも行きたいのです。でも苦しくて、辛くて、こんな人と一緒にいたらしんどい、人の重荷を負わされるような所には誰も行きたくありません。でも神に従うというのはそういうことなのです。新しい役員が7名選ばれました。役員さんは重荷を負うことになります。でも天国で必ず覚えられ、大きな報いをいただくでしょう。なぜ、信仰生活が苦しいことがあるのでしょう。それは人の罪を負うからです。キリストが罪人と関わるからです。キリストが罪人の中に入り、共に生き、罪人の罪を負って死んだからです。でもそのように生きる人はキリストに似た者となります。

●アップル創業者、スティーブ・ジョブズ氏の最後の言葉
私はビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は成功の典型的な縮図に見えるだろう。…病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。私がずっとプライドを持っていたこと、認められることや富は、迫る死を目の前にして色あせていき、何も意味をなさなくなっている。…今やっと理解したことがある。…私が勝ち得た富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた思い出だけだ。これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと一緒にいてくれるもの、あなたに力をあたえてくれるもの、あなたの道を照らしてくれるものだ。…あなたのためにドライバーを雇うこともできる。お金を作ってもらうことも出来る。だけれどあなたの代わりに病気になってくれる人は見つけることは出来ない。物質的な物はなくなっても、また見つけられる。しかし、一つだけ、なくなってしまったら、再度見つけられない物がある。人生だよ。命だよ。…誰もがいつか、人生の幕を閉じる日がやってくる。
  1955年2月24日 - 2011年10月5日(56歳)
「あなたの代わりに病気になってくれる人は見つけることは出来ない」という言葉が心に響きました。確かにそうかもしれません。誰もこの世では病を代わってくれません。でもイザヤ53:3、5に「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。…彼の受けた傷によって私たちは癒された。」とあります。

●「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。」(ローマ6:3)英語では「baptized into Christ Jesus were baptized into his death?」であり、直訳すると「キリスト・イエスの中にバプテスマされた者は、彼の死の中にバプテスマされたのである」です。キリストの死とは、単なる自然死でも、病死でもありません。罪を負う死です。その死の中に自分を浸す(バプテストする)のです。汚れが水に移ることによって、洗濯物が綺麗になるように、私の罪はキリストと一体になることによってキリストに転嫁されます。このような死がどれほど恵まれた死であるかを知っている人がどれほどいるでしょう。そして私が死で終わることのないように、キリストの復活が今度は私に転嫁されたのです。キリストの死と復活の法則は、彼と一体である私にも及んだのです。私が本当に十字架にかかり、葬られ、復活しなくても、キリストの上に起こった恵みが私の上に起こるのです。
キリストに接ぎ木されていなければ、私は罪に対して死んだ者とはなれなかったでしょう。またキリストに結ばれていなければ、神に向かって生きることも出来なかったでしょう。私たちは自分の力では神に向けないからです。キリストから離れれば、死(罪・悪魔)はたちまち一瞬のうちに私を飲み込むでしょう。しかしキリストと一体でいれば、敵は何も手出しは出来ないのです。私をこのような者に変えて下さった方を誇りに思います。スティーブ・ジョブズは、キリストの恵みと命と愛を知らなかったのでしょうか。最後に残るのは、愛した思い出だけでなく、神の愛です。神が私を愛していること、神の命と恵みです。それが私を必ず変容するのです。主はペトロに、「私に従いなさい」(19節)と言われました。最初に弟子になった時と同じ言葉です。私たちもイエス様に従うことを、求められています。イエスに従うことは命だからです。キリストに従って永遠の命を獲得しましょう。