『あの方は復活なさった』 井上隆晶牧師
イザヤ61章9~62章5節、マルコ16章1~12節

❶【石を転がされる神】
「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。」三人の婦人たちはイエス様の遺体に香油を塗ろうとして、朝早く起きて墓にやってきました。婦人たちが墓に行く途中「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら行きました。ところが墓について見ると、石は既にわきへ転がしてありました。「目を上げて見ると」(16:4)とあります。目を上げるという言葉を聞くと、詩編121:1を思い出します。「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは、天地を造られた主のもとから来る。」婦人たちの心配をよそに、神は信じようとする者を助けて下さいます。

❷【復活を告げる天使】
墓の中に入って見ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っていました。たぶん天使でしょう。彼は婦人たちに告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる、と。」(マルコ16:6~7)復活は天使によって告げられました。人間が、実際にキリストが復活した様を見たわけではないのです。天使が告げたというのは「天からの言葉」ということです。「地からの言葉」ではないのです。人間の知恵や力で、復活を知ることは出来ません。神の出来事は、いくらあなたが理解できなくても、受け入れるしかないのです。
●柏木哲夫先生の言葉
ある日、宣教師の先生は「柏木さんは雨が降っている時に、バケツをさかさまにして置いているような気がする」とおっしゃいました。つまり、神様の愛は雨のように降り注いでいるのに、しっかり受け止めるためにはバケツを上に向けないとならない。バケツを伏せていては決して水は溜まらないというのです。それから「神様はおられるのだろうか、という気持ちで聖書を読むのではなくて、神様はきっとおられるんだと信じて聖書を読めば、神様の愛を受けることができる」と話して下さいました。

❸【キリストの復活とは~死を滅ぼす王~】
「十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(6節)婦人たちは十字架につけられたイエスの遺体を捜していました。人間は、必ず死んでしまう命しか知りません。だから遺体を捜したのです。しかし、キリストの命はそのような命とは違い、死を飲み込んでしまう命でした。つまり、必ず生きることになる命だったのです。ルカ福音書では「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」(ルカ24:5)と天使はいいました。生きておられる方とは、神のことです。キリストは人となった神です。人間を死から救うためです。尊厳が卑しさを取り、力が弱さを、永遠に生きておられる方が時間を受け取られました。そして人間だからこそ死ぬことが出来、神だからこそ復活することが出来たのです。こうしてすべての救いを成し遂げられて、受け取られた人間性を癒して復活させ、朽ちない体を用意されたのです。
●東北大震災で、子供を亡くしたお母さんがいました。保育園は高台にあったので地震の時は無事だったのですが、なぜか園は、子供たちをバスに乗せ、早く家に帰そうと思って山から降りて来たのです。そこに津波が来て、ガソリンが漏れて炎上し、バスは火に飲まれて多くの子どもが亡くなりました。そのお母さんの娘は、小さくなって真っ黒焦げになった娘の遺体を抱いて泣いたそうです。
私たちの一生は悲しいものです。自分の願いが適うことはそんなに多くはありません。夢が適わなかったり、計画が途中で中断されたり、自分でも思っていなかった重荷を突然負わされることになり、疲れ果てて倒れてしまうこともあります。生まれながらハンディを負わされている人もいます。この世はあまりにも理不尽で、不公平です。この世が全てだとしたら、人の生涯は何と悲しいことでしょうか。いろんな苦しんでいる人を見ると、必ず神の国は用意されていると思うのです。すべての人間は死の敗北者です。死に勝てないのです。しかしキリストが私たちの死と闘い、私たちを死から解放して下さいました。人間に勝利が与えられたのです。私たちは神の国で不死をいただきます。

土曜日にローマ人の手紙を読みました。私たちは自分の肉の力で復活するのではありません。私たちにはその力はありません。私たちが復活するのは、復活したキリストと結ばれ、一体になるからです。初代教会では、洗礼式は復活祭の夜に行われました。洗礼堂で洗礼を受けた者は、信者の礼拝に参加し、このように歌われました。「キリストによって洗礼を受けた者は、キリストを着たのである。ハレルヤ」この賛美は、キリスト者の性質をよく表しています。私たちはキリストを着たのです。だから死の力も地獄の炎も触れることが出来ないのです。この衣が私を復活させます。イザヤはいいます。「主は救いの衣を私に着せてくださる」(イザヤ62:10)と。私は土曜日に黒色から、金色の祭服に着替えた時、祝福という服は、上から着せられるのだと思いました。
パウロは「あなたがたは皆、キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたのです。」(ローマ6:3)といいました。結ばれるというのは結婚するという意味です。私たちは洗礼によってキリストと結婚したのです。イザヤは「あなたを再建される方があなたをめとる」(イザヤ62:5)といいました。私はこの方によって再建されます。私が破壊されても、この方が私を必ず再建されるでしょう。だから、私たちは死なないのです。更にパウロは、私たちは洗礼によって「新しい命に生きる」(ローマ6:4)と言っています。新しい命とは、キリストの命、復活の命です。この新しい命によって私たちは生かされているのです。命が生かされ、救いを着せられるのです。

●もう一つ復活について大事なことがあります。今年のレントで、私は新しく気がついたことがあります。キリストは「王」だということと、聖書はすべて最初から最後まで「神の国」を語っているということです。キリストは万物の王です。この世では、ピラトから「やはり王なのだな」と言われ、兵士に茨の冠を被せられ、紫の衣を着せられ、「ユダヤ人の王」という罪状書きをつけられましたが、王だからこそ、太陽も星も自然界も病も悪霊もすべて従うのです。十字架の右の強盗は「あなたの御国においでになる時には、私を思い出してください」と祈り、寛大な王から天国に入れてもらいました。彼は「御国に行く時に思い出してください」とは祈らず「御国においでになる時に思い出して下さい」と祈りました。キリストはもう一度、この世の(御自分の国)に来るからです。神の国の王は、地上に下り、天国に入る者を一人一人集めておられます。私たちも神の国に招かれました。「あなたがたは世に属していない。私があなたがたを世から選び出した」(ヨハネ15:19)。この方が地獄に下ったのも、地獄を滅ぼし、悪魔と死を支配し、アダムとエバならびにすべての人類を解放するためでした。すべてのものがこの方の足もとに従うはずだからです。この方は王として戦いに出て行かれたのです。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」(出エジプト14:25)だから昔の祈祷文はこのように書いています。
・「イエスよ、地獄はあなたを迎え入れ、死んだ者が神であり、釘の傷を受けた者が全能者であることを見て、悩み、もだえ、口がきけなくなりました。」
被造物が創造者に立ち向かって勝てるとでも思うのでしょうか。悪魔も死も地獄もどんな人間も、神と戦って勝てると思っているのでしょうか。愚かなことです。死は命の源であるキリストに触れたので麻痺して死にました。えらいものに触っちゃったのです。墓の番をしていた番兵たちは、神の光に照らされたので死人のようになりました。強い。聖書がはっきりと告げているのは、この方に一切のものはかなわなかったということです。この方を誰も殺せなかった、キリストは勝利したのだということです。そんなキリストがあなたの味方になられます。「神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。」(ローマ8:31)だからもう恐れなくてよいのです。
❹【キリストに出会うためには】
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる。」(7節)なぜイエス様は、ガリラヤで会えると言われたのでしょう。ペトロの名を出したのは、彼が先生を裏切り、特に罪の負い目を感じていたからでしょう。彼にもう一度、あの最初の時に帰らないかと招かれたのだと思います。人間は何度も失敗をする生き物です。肉が弱いからです。失敗しても終わりではないと神は言って下さいます。何度でもやり直そうと言ってくださいます。神が待っているからこそ帰れる、赦して下さるからやり直しがきくのです。人は自分の力では天国に入ることは決してできません。レントの間にいくら聖書を読み、祈っても、清い心は湧いてきませんでした。どれほど祈っても変わりませんでした。人を愛する情も、人を赦す寛大な心も出来ませんでした。自分の無力さを知ります。そんな私たちのすべての罪をキリストが負って下さいます。「私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」(イザヤ53:6)何度、失敗しても負って下さる方がいるのです。
イエス様はペトロに最初の頃に戻れと言われるのです。キリストと共に生活していたあのガリラヤは実に楽しかったのです。一緒に寝泊まりしていた時、何も怖くありませんでした。足りないものは何もありませんでした。キリストと共に生き、キリストを信じることが命であることを教えたかったのだと思います。何もなかった時に、どれほどイエス様を頼って生きていたかを思い出させようとしたのです。人生はガリラヤです。でもそこにイエスが共にいるなら楽しいのです。私がこの教会に来た時、何もありませんでした。人もおらず、お金もなく、何も行事がありませんでした。でも毎日、奇跡の連続でした。そこにキリストは確実におられたのです。だから楽しかった。生かされる楽しさがあった。しかし豊かになると、自分で生きるようになってしまいました。キリストは静かに消えていきました。目に見えなくなったのです。キリストだけを頼って生きていた時、楽しかったのです。神が見えると云うことほど楽しいことはないのです。だから私たちはいつもガリラヤへ帰るのです。聖書に帰り、信仰に帰り、教会に帰るのです。その時、その人は真に生き始め、キリストに出会うのです。
●下村湖人『次郎物語』というのがあります。
次郎の叔父である教師が、いじめられていた彼を山に連れて行きました。弁当を食べながら大きな岩の裂け目に根を張って、そびえている松の大木を指して次郎にいいます。「命というものがどんなものか良く分かるだろう。固い岩を二つに割ってだんだん大きくなる。命の力って大したものだ。しかし、卑怯な命は役に立たない。卑怯な命というのは自分の運命を喜ぶことのできない命だ。何百年か昔、松の種は不幸にも岩の割れ目に落ちた。それはその種の運命で、種自身ではそれをどうすることもできない。しかし、泣いたり恨んだりしても何の役にも立たない。この運命の中で出来るだけ生きようと努力しなければならない。これが本当の命。運命を喜ぶというのが本当の命。この松には本当の命があったから、岩をも割ってしまうほど立派に成長した。今では、岩にはさまれたままだが、それは何でもないことになってしまった。」
「私は復活であり命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)イエス様が実にまことの命そのものでした。イエス様の中に本当の命があったので死の力を滅ぼし、墓石を破って復活したのです。みなさんの中にも既に本当の命があるのです。その命を輝かせましょう。アウグスティヌスがいっているように「悪い時代だからこそ、善く生きよう」と希望を輝かしましょう。