『弟子の足を洗う』 井上隆晶牧師
詩編55編10~22節、ヨハネ13章1~11節

❶【愛し抜かれたイエス様】
「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13:1)受難週間の聖木曜日の夜の話です。イエス様は明日には十字架にかかって死なれます。イエス様は自分があと僅かしかこの世にいないことを知って、地上に残していかれる弟子たちとの時間を大切にされました。「この上なく愛し抜かれた。」とはものすごい表現です。口語訳は「最後まで愛し通された」、文語訳は「極みまでこれを愛し給えり」、正教会訳「終わりに至るまでこれを愛せり」、フランシスコ会訳「限りない愛をお示しになった」です。これらの訳から分かってくることは、最後まで弟子たちを愛したことと、弟子の足を洗うという限りない愛を現したという二つの意味があると思います。「走り抜く」という言葉がありますが、途中で止まらないで完走することを意味します。同じように、死の直前まで、最後の瞬間まで、変わらない愛で愛されたということでしょう。人間の愛は変化したり、減少したりするでしょうが、イエス様の愛は変わらず、最後まで同じ愛で愛して下さるのです。その愛の表現が「弟子の足を洗う」ことでした。私は愛してもらえなかったという弟子は誰もいないということです。もしそのような人がいたとしたら、それは愛してもらわなかったのではなく、その愛が分からなかったということだけなのです。イエス様は、弟子である私たちにも同じように愛し抜いてくださいます。洗礼を受ける前も、受けた時も、受けてから今日に至るまでも、従った時も、従わなかった時もイエス様の私たちに対する愛は変わらないのです。神の愛はいつも100%だからです。

❷【召し使いとなったイエス様】
「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」(4~5節)とあります。これは召し使いのスタイルです。イエス様は完全に召し使い(奴隷)の姿になりました。ユダヤでは道が舗装されていないので、サンダルで歩くと足が埃だらけになりました。雨が降れば泥だらけになります。そこで家に入る時には、召し使いが水とタオルを用意して、主人や客の足を洗いました。ルカの福音書を見ると、最後の晩餐の後、弟子たちの間に誰が一番偉いかという議論が起こったと書かれています。(ルカ22章)イエス様を中心とした弟子団では、召し使いはいません。最後の晩餐の時、先生であるイエス様の足も、兄弟の足も洗う者は誰もいなかったのでしょうか。そこでイエス様は、自らが召し使いになり、彼らの足を洗われたのです。天の王が、罪人の前に膝まずきます。天の雲を作り、海の水を創造された方が、水の入った小さなたらいを持たれます。手で万物を創造された方が、その同じ手で、土である汚れた人間の足に触れ、その足を洗われます。私たちは神様に足を洗ってもらったのです。この洗足には二つの意味があります。

❸【謙遜の模範を示された】
一つ目の意味は14~15節に書かれています。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」賀川豊彦は、「愛とはしりぬぐいをすることである」といわれましたが、相手の弱さや罪を赦し、仕えるということです。
●榎本牧師はこんなことを書いていました。「強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」(ローマ15:1)ここに教会の良さがある。教会生活はわずらわしいと不満を言う人がいるが、そのわずらわしさが教会の良さである。それは強くない者の弱さを担うことによって、キリストの十字架にあずかる生活をしてゆくわけである。…受け入れやすいものを受入れることは誰でも出来る。本当に受け入れることが出来ない人、もし受け入れたら、自分がつぶされてしまうような人を、受け入れることはなかなかできない。…しかしイエスが十字架の死をもってめった切にされ、私たちを受入れたのであるから、私たちも他の人たちをそのように受け入れていかねばならない。
相手に仕える秘訣は、相手の人をキリストが愛している、キリストの体だと思うことだと思います。私もそのように思う時、仕えることが出来ます。

❹【罪を洗ってもらうこと】
二つ目の意味は、イエス様とペトロの会話の中に出て来ます。ペトロの番になると、彼は遠慮していいました。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。」(6節)すると、イエス様はペトロに言います。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」ペトロは言います。「わたしの足など、決して洗わないでください。」するとイエス様はこう言われます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」(8節)そこでペトロはあわてて「主よ、足だけでなく、手も頭も」というと、イエス様は「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」(10節)このやりとりは大変重要なことを教えてくれています。《洗足》は明らかに《洗礼と聖餐》を象徴しています。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。」というのはどのような意味でしょう。大衆浴場で体を洗って清くなっても、家に帰る途中で足だけ汚れてしまうように、私たちは洗礼を受けても、すぐに罪を犯してしまいます。足は大地(この世)に一番接している部分です。この世で肉体を持って生きる限り、私たちは汚れてしまうのであり、それは避けられないことなのです。イエス様は以前、「私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。私につながっていなさい。」(ヨハネ15:3)といわれたことがあります。神を礼拝し、神の言葉を聞いた者は、清くなります。しかし私たちはすぐにその言葉を忘れてしまいます。これが肉体の限界なのです。では洗礼後に罪によって汚れた場合はどうしたらいいのでしょう。再洗礼をしなければいけないのでしょうか。そうではありません。この世に生まれるのが一度だけなように、神の国に生まれるのも一度だけです。洗礼後に汚れたら、イエス様に再び洗ってもらいましょう。それが聖餐式です。ヨハネは最後の晩餐(聖餐制定)の話を福音書の中では書いていません。その代りに《洗足式》を書いています。だから、洗足は聖餐と同じ意味なのです。イエス様の聖体、聖血によってあなたは清められ、再び洗われるのです。聖餐は洗礼の更新です。
●人間が神(キリスト)と関わりを持つためには、神に自分を洗ってもらうだけでいいのです。神に愛されるだけで、人間は神と関係が結べるのです。人間の方から何か立派なことをしなくてもいいのです。神に愛されるだけで、その愛の中にとどまるだけで人は神と関係ができるのです。しかし、相手の愛を素直に信じて受け入れるということほど難しいことはありません。傷ついてきた人たちは警戒し、心を開きません。神の愛を素直に信じること、神様が自分にしてくれたことを喜ぶこと、それが救いだなんて何と単純でしょう。

❺【神の愛が分からない人】
「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。」(10~11節)イエス様はユダのことをこう言われました。詩編の中にユダのことが預言されています。「私をあざける者が敵であればそれに耐えもしよう。…だが、それはお前なのだ。…わたしの友、知り合った仲。楽しく、親しく交わり、神殿の群衆の中を共に行き来したものだった。」(詩編55:13~14)ユダよ、イエス様はあなたが裏切ることを知っておられながら、そのあなたの足を洗われました。あなたの罪を負うためです。ユダよ、あなたも愛されたのです。一体、あなたは何が不満だったのですか。キリストの至上の愛によってもあなたの心は、満たされなかったのですか。大斎祈祷文ではユダの事を「ユダは貪りの病によって暗くなり、…満足することをしらない魂よ」といわれています。教父たちは口を揃えて「貪欲」のせいであるといっています。貪欲は、偶像崇拝です。この世のものを求め、それによって満たされようとする心です。ユダは聖パンをいただいた手を銀貨に伸ばし、洗われた足をもって祭司長たちのところに走って行きました。彼は、キリストの愛では満足しなかったのです。罪の本質は、神の愛が分からないということなのです。
●民数記23~24章を読んでいたらバラムの預言が出て来ました。バラムはイスラエルを祝福していいました。「見よ、祝福の命令をわたしは受けた。神の祝福されたものをわたしが取り消すことはできない。」(民数記23:20)「あなたを祝福する者は祝福され、あなたを呪う者は呪われる。」(民数記24:9)アブラハムは以前「祝福の源となれ。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:2~3)といわれました。祝福とは神自身のことです。あなたによって祝福に入るというのは、その神の祝福、光、愛、希望、平和などが私たちを通して、私たちを管として他者に及んでゆくということです。これは私たちにとっても同じなのです。私が行く所がどこであっても砂漠に花が咲き、死の陰のような地が命の光で照らされ、絶望が希望になり、呪いが祝福になってゆくのです。イスラエルは神に逆らい、四十年の荒野の生活が始まりました。それにも関わらず神の祝福は去らないのです。この後、25章ではバアルの偶像を慕って、その日に打たれて死んだ者が二万四千人いたといいます。驚きです。どうして人は、神に満たされないのでしょうか。イスラエルの民も、ユダもどうして神の愛が分からないのでしょうか。私たちはどうでしょうか。神の愛に満たされていますか。私たちは既に、キリストに洗われ、罪が赦され、キリストの体、キリストの手足、道具となりました。私たちから既に呪いは去ったのです。呪いはキリストが引き受けられたからです。私たちは既に祝福された者となっているのです。既に驚くべき宝を神はあなたに用意されているのです。しかし、太陽の方に向かなければ、どうして光と熱を貰うことができるでしょう。神に手を伸ばさなければ、どうして祝福を受け取ることが出来るでしょう。神に手を伸ばさないので、その偉大な力が発揮されないだけなのです。もったいない話です。そして私たちは自分を駄目な者だと思っています。
●岡山に津島久雄さんという方がおられました。彼は小学校六年の時、ハンセン氏病であることが分かり、父母と離れて家族教会に入りました。成長するにつれて、教会のために働くことに生きがいを感じていましたが、ある朝、夜が明けるのがおそく感じられ、隣人に尋ねたところ、すでに朝であることを知りました。失明していたのです。そのために悩み、自殺の決心もされました。その時、「こんなつまらない私の名を呼んで、お前は私のものだ」と言って下さる神を知り、喜び、躍り上がりました。その後、検定試験を一つずつ受けられ、ハンセン氏病で初めて、日本基督教団の牧師になられました。そこに至るまでには大変な努力あったと思いますが、その努力をさせたものは神の愛を知ったということでした。その喜びが彼の人生を変えたのです。
あなたはキリストによって「この上なく愛し抜かれ」たのです。神に洗ってもらい、祝福の源となっているのです。呪いは彼が負いました。あなたはキリストによって救われたのです。恵みと恩を忘れてはなりません。偶像崇拝を避けましょう。キリストはあなたを誠実に愛されたのです。だから私たちも神を愛しましょう。