『ラザロの甦り』井上隆晶牧師
詩編88編9~19節、ヨハネ11章17~27、38~44節

❶【ラザロの死】
ベタニアの村にラザロという人がいました。ラザロとは「神はわが助け」という意味です。ヘブライ語の「エレアザル」という名前がギリシャ語化した名前です。ラザロにはマルタとマリアという姉妹がいました。姉妹たちは「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」とイエス様に使いを出しますが、イエス様は「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言って、すぐに出かけようとせず、二日ほど同じ所に滞在してからベタニアに向かいました。他の福音書では遠くに離れていても言葉ですぐに癒した例があるのに、なぜ、イエス様ラザロの病をすぐに癒さなかったのでしょう。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとって良かった。あなたがたが信じるようになるためである。」(ヨハネ11:15)とあります。神は祈りを聞いてもすぐには行動されません。わざと動かないのです。彼らに悲しみを与えるのは、神が無力だからではなく、死や病を取り除くことができないからでもありません。神はあえて「病、悲しみ、苦しみ、死」をこの世に残されます。それがあっても信じることの方が大切であることを教えるためです。目的は15節にあるように「信じるようになるため」です。もし、それらの悪(病、悲しみ、苦しみ、死)が速やかに取り除かれたら、人間は高慢になって、神を求めず、信じなくなるでしょう。イスラエルの民が約束の地に入った時、神様はあえて「異民族」を一度に追い出しませんでした。「あなたの神、主はこれらの国々を徐々に追い払われる。あなたは彼らを一気に滅ぼしてしまうことはできない。野の獣が増えて、あなたを害することがないためである。」(申命記7:22)どんな状況でも、信じることこそ大事なのです。そうでないと、状況にいつも振り回されるようになるでしょう。それこそ状況の奴隷だからです。

❷【死のリアルな様相】
イエス様一行がベタニアに到着したのは、ラザロが死んで既に四日たち、墓に葬られた後でした。ユダヤの気候が暑いので、埋葬は死後できるだけすみやかに行われました。葬儀に出る人は多い方がよく、葬儀は七日間続き、最初の三日間は泣く日と定められていました。その後三十日間喪中が続きました。当時の人たちは、死人の霊魂は、死体にもう一度入るために墓の周りを四日の間さまようが、四日目には、霊はどこかに去ってしまうと考えていました。ですから四日というのはもう絶望的な数字だったのです。多くのユダヤ人が姉妹たちを慰めるために弔問に来ていました。イエス様が来られたとの知らせを聞いたマルタは出迎え「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。…しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」(21~22節)といいました。マルタはおそらくこう言いたかったのです。「知らせをお受けになった時、どうしてすぐに来てくれなかったのですか。でも、あなたがどんなことを願っても、今でも神はかなえてくださるでしょう。」これは彼女の口を通して語った教会の信仰告白です。イエス様は言われます。「あなたの兄弟は復活する」。するとマリアは「終わりの日の復活の時に、復活することは存じています。」(24節)と答えます。旧約聖書の時代は、まだ死後の命についての信仰ははっきりしていませんでした。初期には、善人も悪人もすべて陰府の国(シェオル)に行くと信じていました。陰府の国は死者の国であって、地獄(滅びの国)ではありません。人々はそこでぼんやりとした、力も喜びもない沈黙の生活を生き、すべての人は忘れ去られると考えられていました。
●詩編88は死に近づいた人が詠んだとてもリアルな祈りです。
「私の命は陰府に近づきます。穴に下る者のうちに数えられ、力を失い、死人の中に放たれ、墓に横たわる者となりました。彼らは神の手から切り離されました。あなたは地の底の穴に、深い淵に、暗闇の地に私を置かれます。あなたは私から親しい者を遠ざけました。私は閉じ込められて出られません。あなたは死んだ者に奇跡を行われるでしょうか。死んだ人の魂が起き上がって、あなたを讃美するでしょうか。あなたの憐れみが墓の中で伝えられるでしょうか。主よ、朝毎に私はあなたに祈ります。なぜ、私の魂を突き放し、顔を避けられるのですか。今は死を待ちます。愛する者も、友人も私から去って行きました。今、私に親しいのは暗闇だけです。」(詩編88:4~18、意訳)
しかしバビロン捕囚以後、神は命であって、必ず死を滅ぼし、人から涙をぬぐって下さる、神は必ず陰府から人を救い出し、神を礼拝させて下さるという復活信仰が芽生えてきます。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。」(ヨブ19:25~26)イエス様の当時、既にこの復活信仰はありました。マルタも終わりの日に復活して新しい生命をもらえると信じていたのです。

❸【復活は死後始まるのではない】
このマルタの考えに対してイエス様は「わたしは、復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25~26節)と言われます。イエス様は「自分が復活であり、命である」と断言されます。マルタは、復活は来世ですべての人に起こると思っていました。しかしイエス様はそうではなく、復活は人間が自然に持っている能力なのではなく、キリストと一体になった者に起こるのであると言われたのです。キリストが復活であり、唯一の命だからです。キリストと一体になった者は、復活し命を持つのです。いくら来世に行っても、キリストから離れていたら復活しませんし、命もないのです。キリストと一体になるのは、この世から始まりますから、復活もこの世から始まり、来世で完成するのです。だから主は「私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と言われたのです。あなたは今、復活していますか。生きていますか、死んでいますか。

❹【あなたの石を取りのけなさい】
この後、イエス様はマリアや多くの人が泣いているのを見て「心に憤りを覚えて、…どこに葬ったのか」(33~34節)と言われたと書かれています。墓に来られた時も「心に憤りを覚えて」とあります。なぜ、イエス様は憤られたのでしょう。死の力が及ぼす絶望の力を怒られたのではないのでしょうか。イエス様は「涙を流されました。」神は人間の死を泣かれます。神は死を創造されませんでした。自分が造らなかったものが、今、人を支配し、破壊しているのを見て、主はどれだけ悲しまれたことでしょう。人間は死に慣れましたが、神は慣れないのです。決して慣れないのです。「ああ、こんなものだ」と思われないのです。私たちはあまりにも罪と死に麻痺しています。私は『シンドラーのリスト』という映画を見て、初めてユダヤ人が虫のようにあっという間に殺されるの見て、心が高ぶり憤りを覚えました。人間なのに、そう扱われていない姿に憤りを感じたことを今でも覚えています。人間の命は、神の命と結ばれ、生き生きと生きるはずでした。死を作り出したのは悪魔です。神の創造された命を毎日、死が破壊しています。それでも神は毎日毎日、命を生みだします。悪魔はそれを次々と破壊しようとします。そして神が造られたこの世界に絶望と暗黒と崩壊が蔓延しています。それを止めるためにキリストは来たのです。神は決して死に負けません。
イエス様は墓に来られます。墓は洞穴で、石でふさがれていました。やがて御自分が横たわり、死と、悪魔と地獄と対決することになる場です。この墓はこの世の象徴でもあります。イエス様は命じます。「その石を取りのけなさい」(39節)マルタはいいます。「主よ、四日もたっていますから、もう臭います。」イエス様はいいます。「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」神の栄光とは神の現れです。神は本当におられるという体験です。神の業、神の栄光、神の現れは、信じて行動することによって現れるのです。だから私たちも石を取りのけましょう。マルタの信仰は、石に潰された信仰でした。私たちもいろんな石を自分の目の前に置いていませんか。それに潰されていませんか。「もう駄目だ、いろいろやったけど無駄だった」と、自分の可能性に蓋をしてはいませんか。知識では自由を手に入れることはできません。知識が多くなると、よけいに怖れに支配され不自由になります。先日の、人権侵害公開学習会でも「病気の知識が増えると、そういう目で人を見て、レッテルを貼ってしまい、そのままの人を見られなくなる」とAカウンセラーが言っていました。その通りです。自分にも他人にもレッテルを貼ります。信じることが大事です。まず、石を取りのけなければなりません。それは人間の業です。信じるのは人間の業だからです。その後は神の業です。人々が石をのけると、イエス様は大声で言われます。「ラザロ、出て来なさい!」イエス様の声が、墓の中に響きます。死の世界、固くなった自分、恐れやこの世の知識でがんじがらめに縛られている自分に響きます。
●昔の祈祷書はこう書いています。
・「主よ、息のない者は、あなたの声を聞いて直ちに生きる者となり、死から復活してあなたを讃美しました。」
・「地獄は言います。ラザロよ、何をぐずぐずしているのですか。あなたの友であるイエスは外に立って出て来なさいと呼んでいます。すぐに行きなさい。私も楽になります。私はあなたを飲み込んだ時から、吐き出すように促されています。」
ラザロは死んで四日も経ち、陰府に行き、そこで無数の死んだ者たちに会ったでしょう。しかし、墓の外で命であるキリストが呼んでいるのです。この声を聞く者は、墓から出て行くことが出来ます。キリストの言葉は、あなたを死から命へ、闇から光へと出すことができます。それともあなたは死の友、暗闇と悪魔の友になりたいのですか。キリストはラザロを友と言われました。あなたもキリストの友なのです。友なら、親友のキリストの言葉を信じて出て行きなさい。命は外にあります。命は後ろにはありません。前にあります。信じて、前に出ることにあります。

●林(イム)牧師は、創立98年になる御坊教会に赴任しました。当時20名の信徒でしたが、8000万の幼稚園を建て、3000万かけて古い会堂を改修し、6000万かけて三階建ての牧師館を新築しました。成長する教会の特徴は、伝道を止めないことだといいます。私たちは小さいけれど、神様は大きい。教会の業はまず信仰によって行うことだ、お金は最後だ。この世はお金がまず先だ。目標を決めることだ。自分の状況に安住し、満足してはいけない。固まってはいけない。伝道する教会に神は共にいて下さる。
御坊教会と同じようになれるかどうかは分かりません。最初から条件が違うからです。でも信じるなら、別の栄光を見ることが出来るでしょう。
「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」栄光を見たくはありませんか。私は見たいです。神を見たい。キリストの声に従う時のみ、命があるのです。栄光も命は後ろにはありません。前にあります。それを信じて、キリストにいきましょう。