『それは正しいことか』ヨナ4:1~11、マタイ12:33~42 井上隆晶牧師

❶【ヨナの宣教によって悔い改めたニネベの人たち】

今日から待降節が始まります。待降節はラテン語でアドヴェントゥスといって「来訪」という意味です。この時期はキリストの降誕を喜ぶ時であると同時に、再臨のキリストを、悔い改めをもって待つ時でもあります。「春のレント」に対して「冬のレント」といわれることもあります。だから典礼色は少し暗いブルーなのです。イエス様は来られた」というだけでなく「イエス様は再びやって来られる」のです。闇の中で朝の光の到来を待ち望むように、イエス様が未来からやってくる、光がやって来られる、命がやって来られる、もう一度私を救いにやって来られるのを待ち望むのです。そこで今日は、預言者ヨナのお話から「悔い改めについて」お話したいと思います。

 

ヨナという人は実在した人物です。イラクに「ヨナの廟」というのがあったのですが、今年の7月にイスラム国によって破壊されてしまいました。ヨナが働いたのは紀元前8世紀~9世紀ころであり、記録されている預言者の中では最古の預言者です。ここ以外で聖書に出てくるのは列王記下(14章25節)でイスラエルの王ヤラベアム二世に領土が回復することを預言したことが出て来ます。ここでは古代アッシリア帝国のニネベという町に行って宣教しました。アッシリア帝国があった場所が、現在のイラクですから、ヨナはそのままその町にとどまり死んだのかもしれません。ちなみにヨナというのは「鳩」という意味です。

ヨナの物語で有名なのは、魚に飲み込まれたことです。神様にニネベの町に行って宣教しろといわれたのに、逃げて船に乗り込みました。ところが、海が大荒れになって、ヨナは海に放り込まれたのですが、巨大な魚に飲み込まれ、三日三晩魚の腹の中にいて回心し、陸に吐き出されたという面白い物語があるからです。今日はその続きのお話です。

再びヨナに神の言葉が臨みました。今度は、ヨナは素直に従い、ニネベの町に行き「あと40日すればニネベの都は滅びる」(ヨナ3:4)と叫んで言いました。すると、ニネベの町の人たちはヨナの言葉を聞いて、神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も、低い者も粗布をまといました。王様も王座から降りて王衣を脱ぎ、粗布をまとって灰の上に座り、国中の民に命令を出し、人も家畜も断食して、粗布をまとって祈り、悪の道を離れるように命じました。断食をし、粗布をまとい、灰の上に座って祈ることが当時の悔い改めのやり方でした。徹底的に悔い改めたのです。これを見て、神様は滅ぼすことをやめられました。私はこれを読んだとき、すごいなあと思いました。彼らはたった一日で悔い改めたのです。イスラエルの国でさえも、今だかつてこのようなことは一度もなかったと思います。イスラエルには何度、預言者が遣わされたことでしょう。しかし、彼らはある者を殺し、ある者を迫害し、強情になって耳を傾けず、神のみ心を無視しました。神の言葉を彼らはどれほど聞いたことでしょう。その一切を彼らは地に落として無駄にしました。イエス様もこの出来事を引用し「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼ら(律法学者たち)を罪に定めるであろう。ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。」(マタイ12:41)と語りました。一度で回心したニネベの人たちが、あなたたちを訴えるよというのです。

 

❷【人々の救いを喜ばないヨナ】

このような鮮やかな回心を見たヨナはどんな思いをしたのでしょう。「ヨナにとってこのことは大いに不満であり、彼は怒った。」(ヨナ4:1)と書かれています。なぜヨナは彼らが救われたことを喜べなかったのでしょう。自分が一生懸命語ったのに、自分の言う通りにならず、面目が丸潰れになったのをすねたのでしょうか。彼の神への不満と抵抗は徹底しています。「わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。…わたしにはこうなることが分かっていました。」(4:2)アッシリア帝国は北王国イスラエルにとっては脅威でした。やがてイスラエルはこの国に滅ぼされることになります。だからヨナにとっては敵にあたるのです。その帝国や、その都の人たちが滅亡を免れて救われれば、やがて自分たちにとって不利になると思ったのだと思います。だから敵に対する神様の仕打ち、神様のなされ方が不満で仕方がないのだと思います。

ヨナは「生きているよりも死ぬ方がましです」といいました。それを聞いて神様は「お前は怒るが、それは正しいことか」(4節)と問いただします。しかしヨナは黙っていました。ヨナは丘の上に小屋を建て、都が滅びないか見届けようとします。神様はヨナが暑いだろうと思い、とうごまの木を生えさせ日陰を与えます。それでヨナの不機嫌はたちまち直り、上機嫌になります。しかし翌日、神様は虫を送ってその木を枯れさせます。とたんにヨナは不機嫌になり、神に向かって文句をいいます。「生きているよりも死ぬ方がましです」。それを聞いて神様は再び「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」(9節)と問われます。ヨナは「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです」(10節)と返答します。

ヨナは何もしていません。とうごまの木を育てたわけでもなく、苦労して伝道したわけでもありません。たった一日だけ働いただけです。何が不満なのでしょう。どうしてこんなに「自分は正しい」と主張するのでしょう。自分の思い通りにならないことを怒っているようにしか思えません。まるで欲しい物を買ってくれないといって駄々をこねる子供のようです。すぐに「死ぬ、死ぬ」と言って親を脅かして、自分の欲しい物を手に入れようとしている息子の話を聞いたことがあります。ヨナも同じです。神を脅かして駄々をこねて、神を自分の思う通りに従わせようとしているだけです。私にはヨナ自身に問題があるように思えるのです。ニネベの人が問題なのではないのです。自分の敵や、自分の周りの環境が問題なのではないのです。彼自身の神に対する思いが問題なのです。ヨナが神様に対して怒りと不満を持っているということです。神様が自分の願いをきくのは当然であると思っています。そんなものは神ではありません。偶像です。神に仕えるのではなく、神を自分に仕えさせているようなものです。自分が主人であって、神は僕になっています。実はイスラエルが滅んだはそのせいです。偶像崇拝をしたからです。彼らは神を愛さず、自分の願いをきいてくれる偶像を追いかけて行ったからです。ヨナはイスラエルの不信仰な民の象徴なのです。本当に変わらなければならないのはニネベの町の人ではなく、イスラエルであり、ヨナの方なのです。イエス様の時もそうでした。異邦人や徴税人や娼婦の方がさっさと悔い改めて、神の国に入りました。一番入ろうとしなかったのはイスラエルの民だったのです。

 

❸【福音を語り、福音を生きているだろうか】

イエス様は今日の福音の中でこんな風に言われました。「あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:37)

人は自分の心の中にあることが、口から出てくるものです。言葉の事をイエス様は実と譬えられました。良い人は良いことを語り、悪い人は悪いことを語ります。語る言葉で分かるのです。

  • 先日、晴佐久神父の講演会には大勢の方が来て下さいました。感謝です。彼は「どんな人でも受け入れ、福音を語っていれば人はどんどんやってくる。もし人が増えないとすれば福音を語っていないからだ。」といわれました。これを聞いて「私は本当に福音を語っていただろうか。裁きを語っていたのではないか。」と思いました。福音って何でしょう。神は愛ということです。私もあなたも皆さんも無条件で愛されているということです。イエス様の十字架によってすべての人の罪はもう赦されている、天国は開いているということです。ひと言でいったら「だいじょうぶ」「順調、順調」「私たち死なないんです」ということです。本物の愛、本当の福音があれば、人は変わるはずです。それが私たちにあるかどうかなのです。相手が裁きだと感じたということは、やはり私の中に相手を裁く心があった、福音を語っていなかったということなのです。それを教えられました。

晴佐久神父の話を聞いて、I牧師が「彼は自分を受入れているし、他人も受け入れている」といいました。その通りで、晴佐久神父には神様が自分を愛し、用いておられる、神は自分と共にいてくださるという確信があります。講演会前に別室で話をしている時に、彼はこんなことを言いました。「僕がカトリック神学校に入って最初に教えられたことは『事功論』です。私という人間がどんなに駄目な人間であっても、神様が選んで使うのだから、大切なことはその神様を信じることです。私たちの頑張りや、立派さや、雄弁な言葉で人が救われるのではありません。だから大胆に語ればいい。」まず、自分を受入れ、自分を赦し、自分を愛することが必要なのです。神の私への愛を信じるのです。心が綺麗になったら用いる、悪い心がなくなったら用いるのではないのです。ヨナは反抗的な心のまま、神様に用いられました。こんな男の説教でも一つの国が救われたのです。だから神様は私を必ず用います。自分のような者を受入れ、愛しておられ、用いて下さることを喜ぶのです。それが福音を語り、福音に生きるということです。

私はすでに天のもの、神様のものをいただきました。イエス様の言葉、聖霊、聖餐、赦し、永遠の命、これらがもう遠くにではなく、近くにすぐそこにあります。私はこの世の物ではなく、神様自身を求めます。父と子と聖霊の神、ご自身を求めます。この世の物をいくら求めても、あまり入りません。翌日にはますます体がしんどくなります。しかし聖霊を求めた人は、神自身を求めるであって、その人は生かされます。

ヨナと同じです。私は「問題は他人ではなく自分にある」のだと思いました。イスラエルの民は神のことを知っていましたが、神の愛を信じていませんでした。私も同じです。神のことは知っていましたが、神の愛を信じていませんでした。無条件の愛を信じないで、条件付きで信じていました。福音ではなく律法だったのです。そこに問題がありました。私が神を愛し、また神に愛されていることを喜んでいるかが問題だったのです。何を持つか、何を与えられるかではないのです。神はもう既にここにいます。このちっぽけな教会にいます。この祭壇の上におられます。だからもう大丈夫なのです。神はこの教会を愛しています。だからもうだいじょうぶです。