『神の国を求めなさい』 井上隆晶牧師
ヘブライ11章7~10節、ルカ12章29~34節

❶【神の国を求めること】

イエス様の教えというのは、一言で云うと「神の国」といえると思います。ルカは「神の国」といい、マタイは「天の国」と言う傾向が強いのですが、同じ意味だと思って下さい。イエス様が伝道の初めに言われた言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:14)でした。また、山上の教えの中でも「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(衣食住)はみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)といわれました。今日のルカを読むと、「ただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:31~32)と言い換えられてあります。弟子たちを宣教に派遣する時も、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」(マタイ10:7)と命じられ、復活した時も「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数々の証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」(使徒1:3)とあります。イエス様の教えは、初めから終わりまですべて「神の国」のことだということが分かります。

この神の国というのはどこにあるのでしょう。マタイ25章34節を見ると、最後の審判の時に天国に入れられる人に向かってイエス様が言われた言葉があります。「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」この言葉から、この世界が創造される時から神の国はあったのだということが分かります。創世記で、「初めに神は天と地を創造された」(1:1)とありますが、この「天」というのは、大空、宇宙のことではなく、霊的な世界である「神の国」を意味しており、「地」の中に大空、宇宙が入るのだと教父たちは言っています。なぜなら、地上の物はすべて移り変わり、変化し、減少するからです。太陽もエネルギーが尽きる時が来るのです。これが被造物の世界です。しかし、天の国、神の国は永遠の世界であって、移り変わることもなく、終わることもありません。では、なぜ神はこの世界を創造されたのでしょう。そして、人間を最初から天の国ではなく、地上のエデンに置かれたのでしょう。この世は、人間が神の国に入るために成長する場所のようなものであると思われます。蝶でも、幼虫の時に育つ場所は限定されており、成虫になってから育つ場所とは違います。カブトムシやセミなどは、幼虫の時は地下ですが、成虫になれば大空を飛び回ります。人間も幼児の時、青年の時、壮年の時、老年の時と生活する場が変わります。それと同じなのです。人間はそのことをうすうす気がついていて、仏教の輪廻の思想などが出て来たのだと思います。

だから地上の生活が目的ではないのです。神の国、天の国が目標です。だからこそイエス様は「ただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:31~32)と言われたのです。地上のものよりも、天のものを集め、求めなさいと言われたのです。地上のものはもちろん必要ですが、それは天に昇るために必要なのであって、地上に蓄えるために必要なのではないのです。皆さんがエレベーターに乗るのは、乗ること自体が目的ではなく、その扉の向こうに待っている人に出会うため、扉の向こうの住まいに行く為なのです。

 

❷【ノアの信仰】ヘブライ人の手紙の著者は、旧約聖書の中から族長たちを例にとって、彼らが皆「神の国」を求めて生きたことを語りました。ノアは箱舟に乗って古い世界から新しい世界へ移りました。これは古い世界が新しい世界に変容することの雛型です。

「信仰によってノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けた時、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。」(ヘブライ11:7)

「まだ見ていない事柄」というのは洪水の事です。ノアはまだ雨が一滴も降らない前から、本当に洪水がくることを信じて大きな箱舟を作りました。彼は現実逃避をしたのではありません。現実をよく見据え、自分の罪から目をそらさないで、神の言葉に生きたのです。ノアの舟はとても大きなもので、趣味や片手間で出来るようなものではありませんでした。それほどノアは神の言葉を真実なものとして、本気で聞いたからこそ準備をしたのです。世の人はノアを笑ったでしょう。ノアの行動はばかばかしく見えたでしょう。私たちも日曜日ごとに教会に集まり礼拝を献げていますが、世の人から見れば、そんなに集まらなくてもと思うかもしれません。私たちも神の国が来ることを思って、本気になって身を正さなければなりません。趣味や片手間で、永遠の命を獲得できると思ってはなりません。ノアが全生涯を傾けて箱舟を造ったように、あなたも永遠の命を入れる入れ物(器)を、全生涯を傾けて準備しなさい。それは絶えざる修道生活を抜きにして出来るものではありません。さらに「自分の家族を救うために箱舟を造り」とあります。この信仰生活はあなただけでなく、あなたの家族も救うのです。

・「昼も夜も決して黙してはならない。主に思い起こしていただく役目の者よ、決して沈黙してはならない。」(イザヤ62:6)

・「わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。」(サムエル上12:23)

救いは個人のものではありません。連帯です。一人の信者は、他の信者の為、また未信者の家族の為、他者のために信仰し、存在しているのです。だからキリスト教徒としての務めを止めたり、怠ったりしてはなりません。この世の仕事は、誰でもできますが、主の名を呼び、執り成す仕事は私たちしかできないのです。やがて神の国が来た時、私たちの正しさは証明されます。それまで笑われようが、気がおかしいといわれようが信仰生活を続けましょう。

 

❸【アブラハムの信仰】

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出てゆくように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)私たちにとって「自分が財産として受け継ぐことになる土地」とは天国・神の国です。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と言われたからです。この世の国ではなく神の国があなたに与えられる財産です。だからあなたもその神の国に向かって「出て行くように」、旅をするように神は命じられます。アブラハムの旅は、天国への旅の雛型なのです。

「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。」(ヘブライ11:8)「他国に宿るようにして約束の地に住み」とあります。約束の地に行ったのですが、そこは同時に他人の国でした。この《同時性》が大事なのです。私たちも神の国に既に足を踏み入れているのですが、同時にこの世を他国で過ごすかのようにして過ごさなければならないのです。「地上の国に宿りながら、神の国に住む」のです。アブラハムは、家族たちと共に「幕屋に」住んだとあります。私たちもこの世において、教会という幕屋に神の家族たちと共に住むのです。教会こそ、この世に現れた神の王国であり、神の国という氷山の一角なのです。この都島教会は小さいですが天とつながっている場です。地上にありますが天のものがそこに同時に存在し、天国の様相を帯びています。ここには天のもの、つまりキリストの言葉、聖体・聖血、天の祝福、聖霊の充満、罪の赦し、永遠の命、光と愛があります。そこにおいて私たちは神の約束を仰ぎながら、神の国が来るのを待つのです。

  • 物事がうまくいかなかったり、努力が報われなかったり、次から次へと試練がやって来る時、私たちは「神は私から離れ去ったのではないか」と思ってしまうことがあります。火曜日の朝、私の心は暗く疲れていました。どれだけ努力しても報われず、どれだけ祈っても神は祈りを聞いて下さらないと思えていたのです。希望を失うと私たちから力は失われます。しかし神に向かって祈っているうちに、だんだんと本当に自分に必要なものが見えてきました。それは「神が共にいてくださる」という確信です。神は私と共にいてくださる、この都島教会に神は共にいてくださるという確信が欲しいのです。神が共にいて下さりさえすれば、問題があってもいい、病が癒されなくてもいい、物事がうまくいかなくてもいいと思えたのです。神が一緒にいてくださるなら怖くないのです。神が一緒にいてくださっても、イエス様は十字架の試練に遭われました。だから問題があってもいいんです。でもイエス様は神様をいつも信じていたので、勇気と力と確信と希望に溢れていました。私たち人間が本当に欲しいのは愛なのです。愛とは別な言い方をしたら、神は私を見捨てない、私と共にいてくださるということです。神は私の味方であり、私は間違っていない、私は正しい、私は神の意志を行っているという確信が欲しいのです。恋愛をしているカップルたちは、貧しくても、周りの環境がどんなに悪くても、二人でいれば怖くはなく幸せでしょう。それと同じです。神が共にいてくださるなら、どんな廃墟でも、ひとりぼっちでも、病の床でも怖くないのです。

この世で報われなくても、神と共にいればいいのです。この世は限界があります。主は、神の国が来るように祈りなさいと言われましたが、人間の力では限界があります。しかし、神によっていつか「この世」も「神の国」になるでしょう。それは次週に話します。

私たちが「神の国」を求めて生きるからといって、「この世の務め、この世の生活」をないがしろにしてはなりません。ノアはこの世でコツコツと「箱舟」を造ったからです。この世をしっかりと生きなければなりません。救われたからもう何をしてもいい訳ではありません。

  • T姉が島原に帰ってカトリックの島原教会へ行かれたそうです。日曜日と、月曜日の朝に二回、聖体拝領を受けたそうです。懐の大きい教会です。神父さんが「この人は聖体を受けても大丈夫ですか」と聞くと、シスターがプロテスタントの信者と知っていて「大丈夫です」と言ってくれたそうです。晴佐久神父を呼ぶという話をすると、急に「まあうらやましい」といって態度がもっと良くなったそうです。そこは殉教者記念聖堂です。50人の人が殉教しました。内堀兄弟(?歳、18歳、5歳の3兄弟)は、1627年に島原城内に入牢させられ、両手の指を切り落とされた後、有明海に沈められました。兄弟の父・作右衛門は1週間後に雲仙岳で殉教しました。イグナチオ内堀は5歳で殉教しました。 指を切り落とされても「まるで赤いバラの花を神に捧げるように」小さな腕を目の前にそっとかざしたそうです。昔の人は「神の国」を仰いで死んでゆきました。

私は最近のキリスト教は、「神の正義」のことはよく言いますが、「神の国」のことをあまり言わなくなったと思います。でも「神の正義」を生きるのは、神の国が用意されているからできるのです。次の世界があるからこそ、この世で正しく生きようとなるのです。次の世界で報われるからこそ、この世で笑われても、報われなくても、それに耐えてキリストのように生きようとなるのです。神の国に行けば、国教はないし、すべての民族とは一つであり、強い者も弱い者もいません。だからすべての民族を愛し、キリストが受け入れたようにすべての人を受け入れて歩もうとなるのです。地上の国は必ず崩壊します。政府は国を守ることで必死ですが、神に従わない国は滅びます。この世では人間は報われません。この世が全てなら、難病を患う人、障害をもって生まれた人、この世で差別されている人は不幸になります。でも違います。この世は本番ではないのですから。神に従って、神と人を愛する練習の場なのですから。神の国をしっかり見据えて、地上の国を生きたいと思います。