『神の国が近づいて来た』 井上隆晶牧師
詩編146編3~10節、ルカ7章11~17、22~23節

❶【人の苦しみ・涙に心が動かされる神様】

ナイン(現在の町の名はネイン)という町での出来事です。「イエスが町の門に近づかれると、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、…」(ルカ7:12)とあります。あるやもめの一人息子が死んで葬式がありました。どこの町でもそうですが墓場というのは町の外にあります。大阪は町の中にもありますが、それは場所がないからです。死は不浄と思われていましたから、死体は町の外に出さなければなりませんでした。この町から10分ほどの郊外に今でも墓場があります。棺は墓場まで行列を作って運ばれました。旗を前に掲げ、いろんな幟をかかげて行列をし、泣く人々がその後に続きます。今のお葬式にもその名残があります。遺影を持ち、幟こそありませんが、棺を担ぎ、親族や列席者が並びます。その息子を葬る葬りの行列と、イエス様一行の行列が町の門の所で出会いました。

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくても良い』と言われた」(ルカ7:13)とあります。イエス様はその葬式の光景を見られ、息子の母親を不憫に思われました。「憐れに思い」とあります。原語の意味は「心の底から揺れ動く、はらわたが裂けるくらいに動く」という意味です。

  • 先日、金スマに渡辺和子シスターが出ておられました。マザー・テレサが日本に来られた時、一番驚いたのは町のきれいさだったと言います。町にも道路にもゴミが落ちていない。でもその後、マザーはいいました。「でも、もし家族同士、隣人同士やさしい思いやりや会話がなければ、それはインドの泥で出来た家に住む彼らよりももっと貧しいのです。愛の反対は憎しみと思うかもしれませんが無関心です」といわれました。無関心とは、他人の苦しみ、悲しみに心が動かないということです。私たちはどうでしょうか。

イエス様は「私を見た者は父を見たのだ」といわれました。父と子は同じ有り様だというのです。最も高き所におられる神と同質な方、一体である方が、この無名の小さな婦人の不幸、悲しみ、涙に心を動かされたのです。この婦人の涙が神の心を動かしたのです。これはすごいことです。神様というのは高い所におられて、人間の苦難に対して涙も流さず、心も動かないような方ではないということです。神は人間の悲しみに心が動くのです。災害や不幸があると、私たちは「なぜ、神はそのようなことを許されるのか。それでも神は愛か!」と叫びます。でも心が動かないのは神ではなく、実は人間の方なのです。神は痛いほどに心が動き、心が裂けるくらいに憐れに思われるのです。それをまず知りましょう。

そして「もう泣かなくても良い」と言われました。私たち人間には決して言えない言葉です。私たちはせいぜい共に悲しむこと、慰めることしかできません。同情(英語でシンパシー)というのは「シン」+「パッション」で出来ています。「共に苦しむ」という意味です。人と共に本当に苦しんでくれたのは神キリストだけです。もう泣かなくても良い」という言葉は、この世の悲しみを終わらせることが出来る者だけが口にすることができる言葉です。この方は、この世の悲しみを喜びに変えることが出来るのです。

 

❷【死の国(死)の中に神の国(命)が入って来た】

「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。」(ルカ7:14)とあります。イエス様は行列を止め、棺に手をかけて言われます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」すると、死人は生き返ったのです。息子は母親のもとに返されました。

この物語は私たちに何を教えているのでしょうか。葬りの行列と、イエス様一行の行列が町の門で出会ったのは、死と命の出会いを意味しています。ちょうど、出血の止まらない婦人を癒したのと同じです。旧約聖書に「血は命である」(レビ)と書かれてあります。血が止まらないというのは、命がどんどん流れて行ってしまうということであり、死に至る病を象徴しているのです。その婦人がイエス様の衣に触れるだけで、血の流出が止まりました。つまり死に至る病が癒され、命の支配が始まったのです。そのように、このイエス様に出会ったので、若者の死は止まり命が始まりました。

ナインという町はこの世の象徴です。イエス様はこの世に入って来られました。死の世界の中に、命が入って来ました、死の国の中に神の国が入って来ました。死を終わらせ、この世を命で満たすためです。だからあなたもイエス様と出会って生きなさい。礼拝や集会、祈祷会に行くことは、命に触れるために行くようなものです。そこに行けばあなたの死は止まります。キリストの言葉を聞けば、あなたは再び命を吹き返します。

 

❸【キリストが神の国(天国)である】

皆さんは神の国とはどのようなものだと思いますか。昔「帰って来たヨッパライ」という歌がヒットしました。「天国良いとこ、一度はおいで、酒はうまいし、ねえちゃんはきれいだ」というような歌詞でした。ねえちゃんだけだと差別ですから、「兄ちゃんはかっこいい」でしょうか。それがこの世の人のイメージなんです。しかしイエス様はある時弟子たちに「神の国は見える形では来ない。ここにある。あそこにあるというものでもない。神の国はあなたがたのただ中にあるのだ」と言われました。こんな場所だったら天国、こんな人がいたら天国というようなものではないというのです。あなたがたのただ中にあるというのは、イエス様自身のことなのです。イエス・キリストが天国、神の国です。だからイエス様と一体になれば、神の国(天国)がその人の中に始まります。イエス様から離れれば、その人は神の国(天国)からも離れます。

「近づいて」という言葉がこの物語では二回も使われています。(12、14節)イエス様が近づいて来られたということは、神の国が近づいて来たということです。神は遠くにおられるのではありません。神は高い天から人を見降ろしているだけではないのです。神は人となってこの世に来られました。それはなぜか、それはこの地に興味があるからです。先日詩編を読んでいたら「主は仰せを地に遣わされる。み言葉は速やかに走る。」(詩編147:15)とありました。神は天地を創造した後、地が壊れ、歪んでしまったら放っておくというような方ではありません。主は仰せ(言葉)を地に遣わされるのです。それがイエス様です。それはその言葉によって、つまりキリストによって大地を再創造し、新しくするためです。地とはあなたのことです。あなたはすぐに絶望してあきらめますが、神はあきらめません。腐敗し、崩れ、歪んだあなたを天に上げるために来たのです。

 

  • 夕礼拝の聖餐式文の中にこんな祈りがあります。

「父は御子をこの世に送り、御子の十字架と復活によって、私たちを罪と死の鎖から解放し、われらを再び地から復活させ、天に昇らせ、来世の国を与えるまで救いのわざをやめられません。われらを救おうとする主の熱意と、その与えられた多くの恵みを覚えてあなたに感謝いたします。」(序唱)

「人を愛される主よ、あなたはあなたの世界を愛され、終わりにいたるまで、被造物からみ顔をさけず、御手の業を忘れず、深い慈しみにより多くの方法をもって人を顧み、預言者を遣わし、彼らの口を通して将来の救いを約束し、奇跡を行わせ、律法を与えて助け、天使を立てて守り、時が満ちたとき、あなたは御子イエス・キリストを遣わされました。」(奉献文)

イザヤ書にこんな言葉があります。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」(イザヤ9:6)、「母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを私の手のひらに刻みつける。」(イザヤ49:15~16)。神様はこの地(あなた)を愛しておられます。そしてこの地を救うことを決心され、神の国を与えるまで救いの業をやめません。私たちが罪を犯しても、神は顔を背けません。自分の創造の業である私たちを忘れません。そこに救いがあります。だから諦めてはなりません。神様があなたを諦めません。すべての人を諦めません。だからあなたも自分がすぐに変われないからといって諦めてはいけません。礼拝を辞め、集会を辞め、聖書を読み、祈ることを辞めてはいけません。

 

❹【神はあなたに手を差し伸べておられる】

神が来たらどうなるかということが詩編の146編に預言されています。「主は、…飢えている人にパンをお与えになる。主は捕らわれ人を解き放ち、主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。」(詩編146:7~9)また、ルカ7章にも書かれています。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」(ルカ7:22)これらはみな、キリストが来て成就しました。5000人の飢える人にパンを与え、罪人や徴税人を受け入れ、悪霊に憑かれている人を解放し、盲人の目を開き、生まれながら足の不自由な者を立ち上がらせ、今日のお話のようにやもめを励まされました。キリストが来るとこのようなことが起こるのです。これは今日成就しました。貧しい人は福音を告げ知らされている。」とあるでしょう。今日、皆さんは福音を聴きました。ここに神の国が来ています。ここにキリストが来ておられます。

  • マザー・テレサが日本に来た時、ある青年が質問をしました。「私はあなたの仕事を尊敬しています。しかし一つだけ腑に落ちないことがあります。あなたの施設では薬も人手も不足しているのに、なぜ手当をしても死んでしまう瀕死の人にそれを使うのですか。その薬を治る見込みのある人に使ったほうが良いのではないのでしょうか。」するとマザーは彼に答えました。「薬が役に立つかどうかは問題ではありません。一人の人間が一生を終えるにあたって、どういう気持ちで死んでゆくか、それが最も大切なのです。彼らは死の間際に感謝するのです。その為に使われる薬や人手ほど尊いものはありません。」「あなたも私たちと同じように、この世に望まれて生まれてきた大切な人なのです。人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもなく、自分はこの世で役に立たない不要な人間だと思い込むことです。

私たちはいつも効率でものを考えます。役に立つか立たないかで人を見てしまう傾向があります。でもマザーは違いまし。彼女の興味は、人を大切にすること、どんな人にも最大の愛を注ぐことでした。これは神の愛に近いと思います。神はどんな人をも同じように愛し、大切にします。一人一人に目を留め、一人一人の悲しみを自分の事のように悲しみ、その一人一人に関わり、死をとめ、命へ代えて下さいます。イエス様の十字架ほど効率を無視したことはありません。治る見込みがなくても愛します。効果が出るかどうかではないのです。愛すること自体に目的があるのです。愛したいのです。その愛がこの大地を、地球を覆っています。

最後に「神はその民を心にかけてくださった」(7:16)と人々は言いました。原文では「神はその民を訪れて下さった」です。私が今日、一番言いたいこととは何か。それは、神様は来て下さった。神様は、私たち人間を愛するために本当にこの世に来て下さったということです。神様は忘れているのではないということです。マザーが、道に倒れて死んでゆく人たちを、家に連れて帰って解放し愛したように、神様も道に倒れていた私たちを愛するために来て下さったのです。それだけは事実なのです。それが一番いいたいのです。その愛に気づきたいのです。